宝探しとその試練 ドイツ民話

これは昔書いた文章ですが、ちょっと年末にはあっているような気がしたので載せて置きます。グリムばかりがドイツ民話じゃない(グリムは素晴らしいけどね)

ドイツの児童文学作家ブロイスラーが編纂した『真夜中の鐘がなるとき』(小峰書店)というドイツ民話集がある。

このブロイスラーの民話集は、ドイツ各地の民話を自由に語り直したものである。民話はそのテーマによっていくつかのパターンに分類することが出来るが、著者はこの本を『宝探し』というテーマに絞り、様々な地方に伝わる同類の民話のストーリーを自由につなぎ合わせたという。

 この方法は、実は民話の成立過程から見て最も正統的なやり方なのだ。もともと民話や神話には、近代文学の考えるような『作者』は存在しない。民衆の間で生まれたストーリーを語り手が、その時の即興や村に伝わる他の民話と組み合わせる形で語り、また次の世代が時代の移り変わりの中で民話に新しいエピソードを付け加えてゆく。ブロイスラーはこの民話集を『読み物』ではなく『語り物』として綴っている。

 世界のどの国にも、『宝探し』をテーマにした民話は数多いが、ドイツはしばしば戦乱に見舞われ、民衆は災厄から逃れるために、自らの財産を様々な場所や土中に隠さなければならなかった。しかし、戦火の中で持ち主は行方知れずになり、財産は隠されたままになることも多かった。追い詰められた人々の間で、しばしば財産を奪うための、家族、友人同士の裏切りが起きた。『隠された宝』は、だからこそ呪われた、ある『試練』を経なければ得る事の出来ないものと考えられていたのだ。

 勿論、それだけが『宝』の隠喩ではない。ドイツにキリスト教が布教された時、古代からのゲルマン神話の神々は異端とされて信仰の対象ではなくなった。しかし、民衆の中では神々への信仰や畏れの念は、弾圧されればされるほど残り、森の奥深くに住む魔女や妖精、精霊の物語として生きつづけた。森の奥深くで妖精と出会い、宝物のありかを教えられるというストーリーは、ドイツ民衆が日常におけるキリスト教市民社会の裏側に脈々と流れる異教精神や自然への憧れの象徴でもあろう。

 本書の中で大変印象的な2編を紹介する。

大晦日の夜遅く、一人の貧しい母親が子供を抱いて道を急いでいると、教会の新年を継げる鐘がなる。すると、近くの岩山が開き、その奥底に金銀の宝物が輝いていた。

 母親はあわてて洞穴の奥に駆け込み、子供をひとまず置いて宝をかき集める。その時に『新年の鐘がなり終わるまでに、もてるだけ、もっていきなさい。しかし、一番大事なものを、忘れるな』という声が母親の心に聞こえて来た。しかし、目のくらんだ母親は聞き流すだけで、宝を抱えて鐘がなり終わる寸前に飛び出した。そして、新年の鐘がなり終わると共に岩山は轟音を立てて閉じてしまう。

 その時、母親はわが子を岩山の中に忘れてきたことに気づく。嘆き悲しむが、2度と岩山が開くことはなかった。母親は宝をうち捨て、その場を去っていった・・・

 ここで物語が終わるものと、さらに続く話とがある。後者では、母親は教会に毎日通い、聖母マリア像に罪を悔い、子供を助けてくれるように祈る。
 1年後の大晦日の夜、母親は再び岩山を訪れた。新年を告げる鐘と共に今度も岩が開き、その奥底に、宝とともに自分の子供が元気に座っていた。母親は宝に目もくれず子供を抱き上げて岩山から出てくる。その時、再び鐘はなり終わり、岩山は閉じた。

子供は、美しい女性が毎日訪れて、パンやミルクを運んでくれたと言った。母親はそれが聖母マリアであったことを知った。そのパンやミルクは、商人や領主が農民を騙して巻き上げた小麦粉やミルクから運ばれていた。

この民話は、人間の欲望の恐ろしさと共に、異教的精神とキリスト教道徳が最も美しい形で調和している。その媒介を努めるのが聖母マリアである。大地を母とする古代宗教はマリア崇拝の形でキリスト教の中に生き残った。商人や領主が搾取した小麦粉やミルクが、無垢な子供を救うために届いていたという皮肉を込めたエピソードも面白い。クリスマスは歴史的にはキリストの誕生日ではなく、異教の祭典の日であり、だからこそ聖母マリア讃歌が歌われる。キリスト教は異教精神や文明をただ排除するのではなくマリア信仰の形で取り入れたからこそ豊かな文化の実りをもたらしたのだ。

もう一つ、明らかにドイツ全土を荒廃化させた30年戦争をテーマにした民話がある。3人の見習い職人が仲良くドイツを旅していた。ある夜、3人は森の中で、2人の不気味な兵士が焚き火をしているのを見つける。兵士達は『明日の夜に誰かがこの焚き火の跡を掘り返せば、宝が手に入る』と言う。真夜中を過ぎると、兵士も火も消えてしまった。

翌日、3人の職人は村人からある伝説を聞く。このあたり一帯で戦争があり、外国の傭兵たちが虐殺と略奪を繰り広げた。そして、ある傭兵二人が将軍の持つ金貨を奪って脱走しようとして、捕まって銃殺されたが、金貨はとうとう見つからなかった。もし運良くこの宝を見つけた人がいても、その時は一言も口を開いてはいけない。その途端に宝は無くなってしまう。

話を聞いた職人達は、次の夜に昨日の場所を掘り返す。すると、宝が入っている鉄の箱が見つかった。3人が今にもそれを開けようとしたときに、目の前に軍隊と、棒に縛られた二人の兵士の姿が現れた。兵士2人の間には、誰も縛られていない1本の棒杭がある。

今にも軍隊が兵士を処刑しようというときに、将軍の声が響いた。3本目の柱には誰もいないではないか。今、宝を盗もうとしている内の一人をつれて来い。3人の職人は恐怖から3人とも『私じゃない』という声を上げてしまう。その時、宝も兵士も全ては消えてしまった。

この物語は、戦争時の人間の醜さ、恐怖の的だった傭兵の姿と共に、平時においても、人々の信頼関係や友情が恐怖の中ではたやすく崩れてしまうことを告げている。ブロイスラーはこの物語に、実にしゃれた『オチ』をつけているが、その部分は是非直接本書に当たられたい。

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