フランダースの犬はなぜ本国で受けなかったか(三浦版新説?)

このブログの数少ない読者をさらに減らしてしまうかもしれないが、先日、実は生まれて初めて「フランダースの犬」という、まあ本好きなら子供のころに絶対一度は読んでいると思しき物語を、新潮文庫で初めて読破した。といっても60数ページで、読破というほどのものではないが。この物語は多分知らない人はいないのであらすじは差し控えます。

私は確か小学生のころか中学生の頃か、絵本か漫画で一応読んではいたのだが、その記憶はおぼろげである。名作アニメ劇場版「フランダースの犬」は数年前か、何話かDVDで観た。この名作アニメは語るまでもない傑作だが、あえて言えば、原作とは全く別のものと判断したほうがいい。今回原作を読むきっかけとなったのは、我が尊敬する文筆家のひとり、長山靖生氏の新書「謎解き少年少女世界の名作」(新潮新書)を読み、冒頭におかれた「フランダースの犬」解説にいたく感動したからである。

おそらく50代以下の世代にとって、「フランダースの犬」はやはりアニメで知った方が多いのではないだろうか。なんせ半端でない視聴率で、今もなお日本の名作アニメの最高傑作の一つとされ、最終話でネロが愛犬とともにクリスマスの夜死んでいくシーンは有名。ただ、このアニメに出てくるネロはとにかく素直な少年である。そして、不幸な運命を恨まず、人を憎まず、すべてを死も含めて受け入れていくように見える。画家を目指す志も純粋である。しかし、原作版はちょっと違う。少し表現は危険かもしれないが、「死に向かって突き進んでいく」ように見える。

そして、「絵を描く、画家になる」ことは、貧乏な孤児に等しい自分を「偉い人になる」ための強烈な自意識と結びついている(ついでに言うと、村のお金持ちの娘、アロアに対してもなかなか大胆に口説いている。しかしそのラブシーンで「偉くなるか、さもなくば、死ぬかなのだ、アロア」といい、アロアは完全に引いてしまう)。そして、自分が画家として成功したら、この町にお爺さんや犬の銅像を建て、豪華な家を建ててそこで自分のような貧しいが志ある子供たちに教育の機会を与えたい、そして彼らが自分にお礼を言ったら、「いや、私ではなくルーベンスにお礼を言いなさい」と語ってやるのだ…等々、美しくはあるが、やや自意識過剰の夢を見るのだ。でも、こういう経験、実は誰しも中学、高校の頃あったのではないか(恥ずかしながら私にもあった)。こういう点はほとんどアニメからはカットされていると思う(未確認)。

こういったからと言って、原作を批判しているのではなく、ここに感じられるのは不幸な少年の悲劇というより、どんなに無力でも、努力が報われなくても、人にすがるよりは死を選ぶという独特の「芸術家意識」と、「少年だからこそ抱くプライド」である。ちょっと話がずれるが、戦災と餓死していく兄妹を描いたアニメ「火垂るの墓」に、確か宮崎駿が、世間にすがるよりは自分たちの世界を守って生き、孤立の中ででも死んでいきたいという意識は、今の若い人にはどこかにある」といった言い方をしていたと思うが、これは卓見だと思った。「火垂るの墓」が名作だったのは、戦争というテーマだけではなく、自分を疎外する社会、空間が耐え切れずそこからドロップアウトし、自分たちだけの世界にこもって死んでいく人の意識をもきちんと描いていたからである。「フランダースの犬」も、実はそれに近い空気を持っており、今の引きこもりやネットカフェで夜を過ごす若者の心に結構近いものがあるように思える。

おそらく原作者のウイーダ自身、訳者の村岡花子氏の解説によれば、非凡な才能とともに、鋭敏、繊細すぎる感情のために様々な苦悩を抱えていたようだ。ネロに反映しているのは、そんな原作者の心と、19世紀末、近代化に突き進み、個人を疎外していく社会への否定の情念だったのかもしれない。もちろん、熱烈な動物愛護論者だったウイーダが、当時の西欧における動物虐待に対して激しい怒りを持ち、それは原作のパトラッシュの「犬格」の崇高さ、勤勉さを熱烈に語ることにもつながっているはずだ。これまたついでに言うと、同じ19世紀、江戸時代においては日本では馬などの家畜は家族の一員として大変大事にされており、日本を幕末から明治にかけて訪れた欧米人は一様にそれに感銘を受けている(渡辺京二氏の著作「逝きし世の面影」講談社参照)

「フランダースの犬」は、原作の舞台であるベルギーではほとんど評価されなかったらしく、日本での人気が逆流入することから、舞台とされる(全然根拠はないと長山氏は指摘するが)ホーボケン村にはフランダースの犬の銅像も建てられた。しかしこれも長山氏の指摘だが、日本人観光客には大変評判が悪い銅像だそうである。原作では犬種はわからないが、少なくとも労働犬、若き日はやすやすと牛乳を村に車を引いて運びに行く犬である。それがこの銅像では小型犬らしい。要するに、原作をろくに読まないで建てたのであろう。

この原作が評価されなかったのはいろいろな説がある。しかし私は素直にこの原作を読んで、これだと舞台であるベルギーの農村は、金持ちにはこび、哀れな貧しい少年を「村八分」以上の孤立に追いやり、わずかな善人は出てきてもまったく無力な、おおよそ住みたくもない村である。ルーベンスの絵も拝観料をとるがめつさで、しかも本書に名前の出てくるアントワープという実在の町は「(ルーベンスなしでは)誰一人も見向きもしない、汚い、陰気なごみごみした市場」とまで罵倒されている。これで現地ベルギーで喜んで読まれるほうが無理ではないかと思う。ただ、ウイーダが見ていたものは、形骸化した農村共同体の残酷さ、商業化していく近代社会の中で、ぎりぎりと押しつぶされていく、社会とは別の価値を夢見て生きていきたい少年の心だったのだから、こういう表現になるのも致し方ないだろう。

先述した長山氏の新書の中では、「フランダースの犬」の日本における人気を、「二宮金次郎伝説」と対比させ、ネロの姿を「努力すれば報われる」といったきれいごとを排した「挫折する二宮金次郎」と読みかえるユニークな分析をしている。どんなに頑張っても報われないネロの姿と悲劇を、いや、たとえ成功できなくても、敗者として見られても、こういう生き方(死に方)にも意味はあるのだ、と読みこんだ、近代日本人の精神を大変説得力のある例を紹介しながら書いておりますので、ぜひご一読をお勧めします

謎解き 少年少女世界の名作 新潮新書

http://www.shinchosha.co.jp/book/610022/
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