司馬遼太郎を読みふけっていたころの思い出をいくつか

なぜか司馬遼太郎を愛読していたころのことがいろいろ思い出されるので一言。いまの時代はむしろ司馬は戦後民主主義やリベラルの象徴のように語られますが、私が「竜馬がゆく」に読みふけっていた時代は、むしろ左派から、日本の歴史、特に明治維新を美化する存在として批判されていたような気がする。「坂の上の雲」とか特に。

そして、だからこそというべきか、私には学校の授業よりも、「竜馬がゆく」で、幕末から明治維新にかけての日本のすばらしさを認識したのでした。今読み返したら相当異論があるのだろうけど、当時はもう感動しまくっていた。

特に印象的だったのは、竜馬が「議論に勝つことには何の意味もない」という姿勢を持ち続けたこと。「仮に相手を議論でいいまかせたところで、相手が意見や姿勢を簡単に変えてくれるものでもない。単に、相手は名誉を奪われたと思ってますます敵に回るだけだ」(要旨)というのは確かにその通りだと、口から先に生まれてきた私としては妙に納得しました。

しかしその竜馬が、薩長同盟が崩れそうになった時、西郷をひたすら説得する時の姿勢が、相手を論難したり論破するものではなく、ただひたすら、相手の「心を動かす」ためのものであること、これにもちょっと感動しました。人間は説得されて(あるいは説教されて)変わるものではない。この言葉が適切であるかどうかはともかく「真心」に訴えて初めてうごく、というのも、全然実践はできてませんが、当時は深く心動かされたものです。

しかし、今思うと、司馬遼太郎という人は、「男の可愛さ」を描かせたら右に出る人はいない、という作家だったように思います。「燃えよ剣」がその典型で、土方歳三、近藤勇、沖田総司、とにかく出てくる剣士たちが、みな「乱暴だけど実は心優しい不良少年」にしかみえない。実際の新選組はたぶんもっと陰惨な集団だったとしか思えないのですが(有名な池田屋事件も、志士たちの居所を突き止めるために相当ひどい拷問を土方とかはやっているらしいし)ここでの彼らはとにかく「可愛い」。

そのピークを迎えるのが、近藤勇と土方歳三が最後の別れをするシーンで、これも泣かせるのだけど、読みようによっては少年たちのグループを一人抜けて去っていく「番長」と、何とか引き留めようとする親友の別れのようにも読める可愛げと幼さがあって、それが同時に、幕末という激動の時代に、少年のように夢を抱いた人たちの哀しい運命を思わせたりもする。

そして、この小説のヒロイン(お雪)がまたすごく母性的な女性で、土方歳三をある意味子供のように包み込むキャラなもんだから、余計小説全体が「少年小説」的な完成度を高めている(このラストをその女性で締めくくったのもうまい!)

今回、町田明広氏の「新説・坂本龍馬」の前書きで、町田氏も「竜馬がゆく」の大ファンで、かつ、NHK大河ドラマ「勝海舟」の、藤岡弘演ずる坂本龍馬にもいたく感動していたことを記していました。私は思わず「同志!」と思ってしまいましたよ。もちろん、町田氏は偉大な学者になり、私はまあ、こんなもんです。しかし、感動した本の著者が殆ど同世代で、同じ作品に青年時影響を受けていたというのはとてもうれしいことでもある。歴史論を離れて、「男の可愛さ」を描いた作家として、司馬はこれからも読まれていくでしょう

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