「ウイグル人」の一部を引用します 

「ウイグル人」の一節を引用します。

「六三〇年の初め、アシナ・スニシという名の裏切り者の貴族がカラハンを捕え、李靖に引き渡した。同時に、唐軍は男女合わせて一〇万人を超す東突厥の人々を捕えた。彼らは万里の長城内の中国側領土に移住させられた。カラハンを含むアシナ一族のベグたちは長安に連れていかれた。六三〇年のこの敗戦で捕えられなかった東突厥の人々の一部は中央アジアに行き、また一部は東部ウイグルに加わった。カラハンは六三四年に長安で亡くなった。」

「李世民は六三九年、東突厥の王位に、アシナ・スィルバという人物を就けた。彼は李思靡という中国名を受け入れた。中国に服属したこの傀儡の王アシナ・スィルバを、古代より連綿と受け継がれてきたカガンという突厥の王の称号を付けて呼ぶことはできない。」

「独立国であった突厥の王国を思い起こし、中国に捕らえられた突厥の人々を自由にするための秘密裡の活動が始められた。これを提案し行動を指揮したのが、スィワルハンの末子、コルシャドだった。コルシャドは六三〇年、長安に連れてこられたベグたちの中から四〇人の若者を集め秘密の組織を作った。秘密の会議でこの計画が実現したらコルシャドがカガンになることが提案されたが、コルシャドはそれを受け入れず、王には甥の一人を推薦した。彼の意見は受け入れられた。」

「コルシャドに率いられた自由への戦いは、六三九年四月に始まろうとしていた。このとき唐の皇帝は李世民〔太宗 六二六―六四九〕だった。」

「コルシャドたちは話し合い、李世民を生け捕りにして突厥の遊牧地に連れていき人質にし、彼を帰す見返りとして長安で軟禁されている王子たちを解放させる。次に突厥の人々を動員し、東突厥を独立させる。」

「コルシャドは、李世民が庶民のかっこうをして夜に長安の街に出かけ、人々の様子を尋ね歩くという習慣があるという情報を得て、そのときに彼を捕えようと決めた。ところが、コルシャドが決行を決めた日、夕方から天候がくずれ風が出てきた。李世民はその日は街に出かけないことにした。しかしそれを知ったコルシャドは、自分たちの計画が漏れたのではないかと疑い、その日のうちに宮殿を襲って李世民を捕えることにした。」

「その夜、コルシャドを先頭に四〇人の若者が宮殿を襲撃した。宮殿内で激しい戦闘が行われた。蜂起軍が放った矢と鋭い刃が一〇〇人ほどの護衛兵を殺した。コルシャドは宮殿の護衛兵の数が徐々に増えていき黒い壁のようになって目の前に迫って来るのを見て李世民を捕えるのをあきらめ、同志に宮殿を出るように命令した。」

「蜂起軍は宮殿の厩舎の馬を手に入れ、馬に乗って渭水に向かった。彼らの後を唐軍が追いかけてきた。河岸で行われた戦いでは、蜂起軍の中のだれ一人、臆病風に吹かれた者はなかった。全員が雄々しく戦い、赤い血に染まり、誇り高く身を捧げ臆病風に吹かれた者はなかった。全員が雄々しく戦い、赤い血に染まり、誇り高く身を捧げた。」

「コルシャドと彼の同志の亡骸は渭水の黄色い土の岸に残された。コルシャドに関するこのできごとは、中国の歴史書に残されている。突厥の民族的英雄、コルシャドの蜂起は鎮圧されたが、東突厥の中で、解放と独立への望みが鎮められることはなかった。独立を得たいという望みは、切り立った絶壁に己を打ち付ける激しい波のように逆巻きはじめた。誇り高い獅子の心を持った勇者コルシャドの名は、民族の自由と独立の道で闘った者、闘っている者の胸に永遠に残ることだろう。」(『ウイグル人』)

トルグン・アルマスがこの文章を書いているとき、彼の目の前には、民族の誇りをかけて独立と解放を求めて玉砕した人たちの姿がありありと見えていたはずです。「独立を得たいという望みは、切り立った絶壁に己を打ち付ける激しい波のように逆巻き始めた」この言葉は、今もウイグル人の魂の中をこだましていることでしょう。古代・中世社会を描いても、そこに脈打っているのは現代の 世界なのです。

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