チャップリンの秘書を務めた日本人

喜劇王チャップリンの秘書を務めた日本人がいます。高野虎市という人で、1885年広島の名家に生まれましたが、家の窮屈さを嫌ったのか、子供のころから芸者遊びをし、10代でアメリカにわたりました。運転手やポーターをしながら暮らしていた高野でしたが、父がなくなると、実家の土地を全て売り払って、アメリカの航空学校に入学。飛行機乗りを目指します。もちろん、実家が金持ちだからこそできたことでしょうが、それにしてもこの時代は大物がいたもんだと思います。

しかし、アメリカで結婚した妻の反対で飛行機乗りは断念、今度は自動車に入れあげ、運転手に。アメリカで知り合った映画興行主から、映画俳優チャップリンが運転手を募集していることを知って、早速面接に行きますが、よほどチャップリンのお眼鏡にかなったのか、たったの数言を交わしただけで運転手にやとわれました。1916年のことです。当時は日本人排斥運動が吹き荒れていた時代でしたが、チャップリンは彼が日本人かどうかなどは一言も聞かず、ただ、その運転能力と人間性だけで雇うことを決めたと言います。

誠実な仕事ぶりが評価され、いつしか高野は運転手だけではなく、個人秘書として、チャップリンの財産管理や、時には妻の浮気調査までまかされるようになりました。チャップリンの1930年代の世界旅行(日本を含む)にも同行しています。しかし、チャップリンの妻ポートレット・ゴダートとついに衝突、1934年、高野はチャップリンに辞表を提出しました。

チャップリンはその後も高野に財政面などで多大の支援をし、高野もそれで日米の懸け橋となろうと様々な事業を起こしますが、あまり成功はしなかったようです(ただ、女子ソフトボールチームを最初に日本に紹介したのは高野だとのことでした)。そして、戦争勃発とともに、高野は知人の元アメリカ人俳優を日本軍人に紹介したことが「スパイ罪」に問われ、無実の罪で収容所に送られ、1947年に解放されるまで閉じこめられていました。

それでも高野は、少なくとも公的な場では決してアメリカを憎むことなく、戦後は、戦争中に市民権を剥奪されていた日系人のための法律相談所の中心メンバーとして活動しました。

1956年、高野は故郷広島に戻りました。61年、チャップリンが来日した時、高野は周囲の人たちに、「チャップリンに会いたいが、自分はもうチャップリンにとっては過去の人だ、会いに行くわけにはいかない」と、涙ぐんで語っていたとのことです。しかし、チャップリンも高野のことを忘れてはいませんでした。彼が反米だ、共産主義者のシンパだとされてアメリカ追放になった時に、高野に汚名を着せる形で名誉を回復してアメリカに戻れるようにしたらいいと勧める人間もいましたが、チャップリンは断固拒否し、子供たちには「コーノ」の思い出を晩年まで懐かしく語っていたようです。

高野虎市は1971年、86歳で亡くなりましたが、最後まで「あれほどの大人物は二度と出ないだろう」とチャップリンのことを尊敬していたということです。

もう一人、「荒野の呼び声」「白い牙」で有名な作家、ジャック・ロンドンの秘書も、また「ナカタ」という日本人で、ロンドン自身は社会主義者を自称しながらバリバリの白人優越論者である種の人種差別主義者の面もあったのですが(「私は社会主義者で労働者だが、それ以前に白人だ」という意味の、まあ本音と言えば本音だろうけど身もふたもない言葉も述べている)実生活では、この日本人秘書を最も信頼していました。

ロンドンの最期は、自殺だったのか、お酒と睡眠薬を飲み過ぎたのかはっきりとはしないのですが、埋葬の時、ナカタ氏は、ロンドンが肌身離さず持っていた手帳を彼と一緒に埋葬しようとしました。参列者が、貴重な資料だからと取っておこうとすると、「いけません、御主人はいつもこの手帳を大事にし、手から離さなかったのです、ここでご主人と共に葬ってあげてください」と語ったそうです。もしかしたら、ロンドンの触れてほしくないプライバシーを、秘書として守り抜いてあげたのかもしれない。

日米開戦の今日ですがこんなエピソードも紹介したくなり、あえて書かせていただきました。

参考文献「チャップリン」大野裕之 中公文庫

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