「天気の子」を観てきました

「天気の子」観てきました。いつかきちんと何か書いてみたいのですが、今のところはまず素晴らしい作品に出合えたことに感謝。私は正直、この監督最初は苦手でした。「秒速5センチメートル」とか、素晴らしい名作だとは思ったんだけど、なんか「純文学」ならぬ「純アニメ」という感じで、映画にひたすら娯楽を求める私のような低俗な人間には無縁の方だ、とすら思ってしまいました。

しかし「君の名は」で、決して作品の純度や作家性を変えることなく、ここまでスケールアップしたエンタメ作品を作ってくれたことに驚かされました。今回の「天気の子」も、新宿の雑踏、つぶれかけたスナック、ネットカフェ、そしてラブホテルまで舞台にして、それが決して下品にならないのがすごい。

いや、こうして書くのは簡単ですけどね、すごいアニメーターなら、たとえば幻想的な異世界を描くことはある程度できると思う。でも、ラブホテルをあんな風に描くのは簡単じゃないよ。そういう街のリアルさを描いているからこそ、街に雨が降り続く絶望感も、一瞬の晴れ間の美しさが人々の心を蘇生させる感動も際立つわけで。

そして、わき役の性格を深いものとして描いておいて、主人公とヒロインは、意志は強くとも、どこかはかない、この現実に居場所がない存在として描くので、物語の切なさが一層際立つ。

逆に言うと、現実に居場所がなかなか見つからない人こそ、異世界に近い存在、昔だったら神の声を聞くことができる存在として選ばれた人々なわけで、だからこそヒロインは天気を、自然を癒す力を持ち、主人公は異世界に連れ去られようとするヒロインを救い出す力を持つ。こういうのは普遍的な神話や伝説の構図なんだけど、今の時代、アニメはそういう神話を蘇らせるための力を最も強く持っている表現媒体なのかもしれないなあ。

アニメの内容に中々触れなくてご不満の方もいるかもしれませんが、新海作品って、なんか本当に言葉が追い付かないなあと思わせるんですよ。とにかく未見の方は見たほうがいい。

「君の名は」を見た時、私は折口信夫の以下の文章をアニメにできるのは新海誠だけだ、と思ったけど、その希望はある程度今回果たされました。ヒロインが、雨空を一瞬晴らせるごとに、自分の体の一部が異世界に連れ去られていく。その体は透明な水のようになる(この部分は、幻想的で美しいだけではなく、ある意味ものすごいエロチシズムを感じさせる)。ヒロインのその姿は、まさに折口の文章そのもの。「天気の子」繰り返すけど見たほうがいい。

折口の名作「死者の書」から

姫はーやっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身・・・・衣もなく、裳もない。抱き持った白玉と一つに、水の上に照り輝く現し身。ずんずんと、さがって行く。水底に水着く白玉なる姫の身は、やがてまた、一幹の白いサンゴの樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。靡くのは、玉藻であつた。玉藻が、深海のうねりのまゝに、搖れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほつと息をついた。引用終わり)

後、寺脇研氏と、チャンネル桜の番組で映画がテーマで一緒になった時、寺脇氏が「君の名は」について、すごい自閉的な映画だ、という意味のことを言われたとき、いや、私はものすごく驚いたんですよね。同じ映画観てこれほど感想違うのかと。(あまりに不思議なので会話することもできなかった。)

寺脇氏がどうこうではなくて、まあ、私も以前誤解していたのかもしれないけど、新海誠の作品って、「君の名は」も「天気の子」もそうだけど、現実に何とかぶつかっていこうとする人たちのドラマですよ。政治も語らないし戦争も出てこない、露骨な形では性も恋愛も語られてないかもしれないけど、ある状況を必死で変えようとする、時には社会のルールや、すべての人に誤解されても拒絶されても変えようとするドラマ。

それは主人公もヒロインも、繰り返すけど現実の社会に居場所が中々見いだせないから、現実を生きている人たちにその意思を伝えにくい宿命を持つ。しかし、それを、現実に生きてはいるんだけど、現実の外にあるなにものかを感じ取れる能力のあるほんのわずかな人たちだけが理解し援けることができる。この映画では、「さりげなく重荷にならないように見守る」ことができる須賀というオカルトライターとその姪、後、小学生にして既に賢者でありオルガナイザーの域に達しているヒロインの弟。その人たちの姿はやっぱり感動を呼びますよ

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