死後に成長する作家 秋山駿が三島由紀夫について書いた文章です

「死後に成長する作家、という言い方がある。埴谷雄高がドストエフスキーについてそう言っていた。これは本物の作家を遇するにふさわしい言い方だ。彼の存在或いは作品が、死後もずっと長く、常により新しい現代的な問題をはらんで再生してくるのである。」

「三島由紀夫がまさしくそういう作家であった、と私は思う。こういう作家は、第一に個性という以上のもの、天禀がなければならぬ。第二に時代と烈しく交錯しなければならぬ。彼は第一の資格を有し、第二の役割を見事に果たした。従って彼の死後には、文学にも、いや広く日本の精神の領域にも、彼一身の分量の穴がぽっかりと開いてしまった。その穴を誰も埋めることはできない。こういう作家、日本には稀である。」

(様々な文学やそのほかの事件の際)「いったい、彼ならどう考えるのだろうか、私は(中略)しばしばそう思い、自問自答を繰り返した。何度も彼を呼び戻した。多数の人も同じではあるまいか。彼は、その生の絶頂において死を選んで行ったようで、それはそれで仕方のないことだが、彼はその死後われわれに、ああそうだ、今こそ三島由紀夫がいなければならぬ、彼は生き続けるべきであった、という思いを遺したのであった。」(中略)

「三島さんの決起と自決の行為について、いまの私はこう考える。その行為の全体、それに連なる言葉のすべてを、そっくりそのまま受け入れること、いかなる解釈もいらない。解釈しない、ということが、三島由紀夫のこの行為への私の礼儀である。」

「その方が耳をすませば聴こえてくるであろう。三島さんの生を超えた、三島由紀夫という存在の音調といったものが。」

「ただ一つ残念なことがある。なぜ三島さんは、あのスタンダールのように言わなかったのだろうか。紀元二千年になれば、私はもっと読まれ、もっと理解されるであろう、と。」

(秋山駿「死後二十年・私的回想 いよいよその『不在』が輝く」)

今日、三島由紀夫についてのいろいろな文章を読み返していて、一番心に響いたのが、評論家、秋山駿が1990年に書いたこの文章でした。

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