「歴史のかげに美食あり」黒岩比佐子著 講談社学芸文庫 より

「歴史のかげに美食あり」黒岩比佐子著 講談社学芸文庫 より

この本の中に、日露戦争時のロシア人捕虜についての文章が載っています。日本は1886年にジュネーブ条約に加盟、99年にはハーグ条約にも調印していました。そして、日本国が捕虜を人道的に扱うことで、日本が文明国であることを示そうとしました。

俘虜取扱規則には第一条にこう書かれています。「俘虜は博愛の心を以て之を取り扱ひ決して侮辱虐待を加ふべからず」そして、捕虜将校には監視無しで散歩の自由を認める、捕虜全体の運動や学習を奨励する、など事細かな規則を定めました。

当時「食道楽」というベストセラー小説を書いた作家村井弦斎は、新聞に「敵人の捕虜」という社説を書き、そこで次のように述べました。

「戦争は軍隊と軍隊との争ひなり。武装したる兵士が互いに勝敗を決するなり。武装せざる人民と人民とは常にその善隣たり朋友たるを忘るべからず。同じく是地球上の人類なり、吉凶禍福あれば互いに慰問慶弔して人間の同情を表すべし。いわんや捕虜となって敵国に来るものはその心情に於いて憐れむべきもの多きにあらずや。わが国民は我が軍兵士に厚うするの余力をもって敵人の捕虜を慰藉するの道を講せざるべからず。」

そして、捕虜収容所では、次のような食事が出されました。これは松山収容所のメニューです。

(将校) 朝 パンバタ付き、紅茶(牛乳、砂糖付) 昼 パンバタ付、スープ卵付、ライスカレー、紅茶 夜 パンバタ付、野菜スープ、タンカツレツ、紅茶

(兵士)朝 パン、紅茶(砂糖付) 昼 パン、イワシフライ、ニンジンとカブを添える 紅茶 夜 パン、マッシュポテト、大根、紅茶

金沢の収容所では「ベルシチスープ」(牛骨ダシ、カブラ、ニンジン、ネギ)要するにボルシチを模したもの、カステラ、ローストビーフ、ポークシチューなどが捕虜将校に出されたという記録もあります。たぶん、明治30年代の日本庶民で、このような洋食や肉類を口にした人は少なかったでしょう。

「捕虜になったロシア兵の多くは、言葉も生活習慣も違う日本での悲惨な生活を想像しておびえていたらしい。そんな捕虜たちが安堵したのは、食事に出されたパンと肉とスープを見た瞬間だった。(中略)戦いに負けて心身ともに傷つき、敵国に護送されて、自分がこれからどうなるかわからないときに、招き入れられた部屋で暖かいスープから湯気が立っているのを見れば、誰でもそれだけで安心するのではないか。」(歴史の影に美食あり)

そして、先述した作家村井弦斎は、「HANA」という小説を書いています。ロシア軍捕虜が、優しい日本人女性、特に看護婦に恋心を覚えて、結婚を望んだというエピソードはいくつもあるようですが、村井はそれをテーマに小説を書き、直ちに英語版となって1904年に発行されました。本書は最初から海外向けに書かれ、日本語版が存在しないという幻の小説です。

ストーリー自体は、ヒロインの日本人看護婦花子と、アメリカ人コナー、ロシア人ダンスキーをめぐるラブストーリーものですが、「歴史の影に美食あり」では、この小説から二つの印象深いエピソードを紹介しています。

花子の兄は日露戦争に出生しますが、戦場で「戦争とはひどいものだ」とつぶやき、また、ロシアの軍艦が沈没して日本兵が喝采すると、日本軍の上官は「喜ぶな。人が死んでいるのだぞ。」とたしなめるシーンもあります。

また、花子の父は「食医」という設定で、病気をできるだけ食事療法で直そうとする医者として設定されています。花子は父の仕事を手伝いながら、アメリカ人コナーに、日本料理の食材や料理法を丁寧に説明します。そして、コナーは感心してこう語るのでした。

「今後、人間が牛肉を食べ続けると、牛を飼育するために広い牧草地を確保しなければならない。一方、世界の人口はますます増大するので、牧草地が足りず、食用肉を供給できなくなる恐れがある。だが、広大な海がなくなる心配はなく、昔から日本人は、海の恵みである魚介類を工夫して食べてきた。肉食に偏る欧米人に、魚や海草の料理法を紹介すれば、必ず歓迎されるであろう。」(歴史のかげに美食あり)

小説では、花子はコナーと結ばれ、渡米して父の食事療法や日本料理を広めると共に、日米の懸け橋として活躍していきます。なんか明治の人って、現代人より、少なくともその想像力においてははるかに国際人だったんじゃないでしょうか。

最近は魚の乱獲も問題になっています。しかし、日露戦争の時代、こういう小説が書かれていたというのも、ちょっと面白い歴史のエピソードではありませんか。欧米でも寿司や日本料理店が開かれるようになった今を、村井弦斎は天国で喜んでいるのかもしれません。

この「HANA」は、村井弦斎のいわゆる自費出版でした。彼は採算を度外視し、英訳、装丁、印刷出版を全てベストセラーでもうけた収入をつぎ込んで行い、1500部を印刷、欧米の有力雑誌や新聞社に寄贈し、20ほどの書評が載ったようです。

なお、村井弦斎は自らも自宅にロシア軍将校の捕虜を招待し、食事でもてなすとともにロシア文学についても語り合っています。

こういう面白い話が満載の本ですので、「歴史のかげに美食あり」(講談社学芸文庫)是非ご一読をお勧めします。著者の黒岩比佐子氏は残念ながら52歳で亡くなりましたが、本書は読み継がれる名著だと思います。

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