小川榮太郎氏とこれまで一緒にやってきた人が、今、石を投げるのはあんまりだと思う。

これは部外者が書くべきではないかもしれませんが、今回の小川榮太郎氏の件で、これだけは言っておきたいことがあるので記しておきます。反論が多いとは思いますが、これは現段階での正直な気持ちです。

小川氏をこれまでも批判してきた人たちが、彼を今回の件(新潮45の問題や、現在週刊文春が明らかにしたネットワークビジネスの問題など)で批判するのはいい。というか、むしろ当然の事。ただ、これまで小川氏に対し特に発言してこなかった人(そして小川氏同様安倍首相を支持してきた人)や、或いは一時的とはいえ、彼と関係があったり、また彼と共に何らかの社会運動をしてきた人たちは、別に庇わなくてもいいけれども、少なくとも「情」を持った言論をしてほしいと思う。

小川氏に対し、今の段階で、社会常識がない、経歴が不明でよくわからない、お金にだらしない、という人たちがいる。はっきり言えば、この3点、みんな私に当てはまる。どこの馬の骨とも知れず、きちんとした学問的業績もなく、ある時期までは平然とTシャツとサンダル履きで国会議員事務所やら出版社やらにいっていたし(スーツって今でもめったに着ることはない)お金は入れば直ちに酒と本と音楽に消えていくし無駄遣いはするし、なんか私に言われているようで辛いものがある。

しかし、ではそういう人間と、少なくともある時期までは一緒にやっていた人たちは、その時点ではどう思っていたのだろうか。放送法遵守を求める視聴者の会では、彼がある時期までは事務局をやっていたはずだ。もちろん、それは任意団体時代の話で、今は新しい組織に再編されたんだから、以前の問題を引きずる義務はないし、小川氏の時期に起きたトラブルの責任は社会的、組織的にはないと言われればその通り。

ただこういう時に、人情の問題として、これまで小川氏と一時的にでもやってきた人ならば「最初の段階で彼がやってくれた意義は大きかった。このような事態になってしまったのは悲しい。」という思いが、もうちょっとあってもいいのではないか。もちろん、小川氏とすぎやま氏とのトラブルで、いろいろ迷惑をかけられたのかもしれないけど。

私は小川氏と会ったのは、確かチャンネル桜の番組と、後一度くらいで、だいたい私は討論番組ではろくに喋れない人間だから、彼との話も余りかみ合わなかったと思う。一つの関係としては、雑誌Hanadaの2018年3月号に、朝日新聞が小川氏を訴えたことを批判する文章を寄せたことがある。そこでは言論を裁判という形で裁くことについてだけ書いた。今でもあの文章は一字一句訂正するつもりはない。

政治運動の現場に一般の人が来たがらないのは、意識が低いからでも臆病だからでもない。自分たちが生活者として生きていくうえでのモラル、友人であれば守る、共に仕事をしてきたら連帯で責任を持つ、極端に言えば、犯罪者であれ友人は友人、こういった庶民の心情が、運動の場では全く認められず、平然と人間を切り捨てる論理がまかり通るのが政治運動の場だということがわかっているからこそ参加しないのだと私は確信している。

私の友人で、今獄中にある人がいる。政治犯でもなんでもない、犯罪を犯し捕まっただけの人だ。彼を法が裁くのは当然、そして罪に服するのも当然。たとえ釈放されても、罪を犯したという事実はしょい続けるしかないし、そういう人間として見られることに堪えねばならないだろう。しかし、それでも友人は友人である。彼について語る時はいい思い出しか語りたくない。

私と小川氏では接点はこれまでもなかったしこれからもないだろう。おそらく意見も会わないだろうと思う。ただ、これまで小川氏に対し何も言ってこなかった私は、今の段階で彼に石を投げる気にはなれないし、その必要も感じない。

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