江東映像文化振興事業団「南部の唄」上映会に参加いただきありがとうございました。

9月1日、「南部の唄」上映会は、12名の方にご参加いただきました。誠にありがとうございました。
当日は雑誌「宗教問題」編集長であり、かつ「全日本南北戦争研究フォーラム」事務局長を務める小川寛大氏が参加いただき、上映後、感想を述べていただきました。中々興味深いものだったので、私の記憶頼りですが、ここに紹介します。

まず、映画としては面白かった、ただ、差別を助長する映画とは言わないけれど、ある種の「南部幻想」に満ちた映画で、その意味では、黒人団体が怒ったのもわかる。それは単に黒人が類型的に描かれているとかいうだけではなく、出てくる登場人物の身分、階級が完全に「固定化」されていること。黒人は、奴隷解放後(明確には言われていないが、舞台は南北戦争後の南部)も、白人の豪邸の料理番や農民として働いている。そして、豊かな白人だから、彼らをいじめたり迫害したりはしない(する必要もない)けれど、基本的には上下関係は変わっていない。「優しい白人に使える誠実な黒人たち」の構図。

そして、印象的なキャラクターに「フェンビー兄弟」という、主人公の白人少年をいじめるプア・ホワイトの子供たちが出てくる。これはもっと貧しい農夫の家で、正直、学問もなければおそらく学ぶ機会もなく、この兄弟の妹はヒロイン的に主人公と仲良くはなるのだけど、階級そのものが移動することはあり得ない(要するに住む世界が違う)この階層がむしろ黒人差別や、自分たちプア・ホワイトに比べて黒人や移民は逆に優遇されている、金持ちの白人は自分たちのような存在を黒人よりもっと馬鹿にしている、という感覚にとらわれやすい。

そして、これは黒人俳優のセリフに、とにかく、相手の問題に首を突っ込むな、干渉するな、というものがあったけれど、これもいかにも南部的な考え方で、それぞれの州、家庭、個々人にはそれぞれの価値観と立場があるんだ、お互いそれぞれのやり方に干渉するな、という姿勢は南部にはかなり強くあり、それが『普遍的な正義、価値観』を押し付けてくる北部への反感にもなっていた。奴隷制の問題も、現実に大農園を経営することが経済基盤だった南部では、今すぐ奴隷制を解放せよ、それは神の正義にも自由の理想にも反する、といった過激な奴隷解放論者の「上から目線」の、現場を知らない物言いへの反感が主だった。

こういう、それぞれの階級が固定化し、お互いに干渉しない生き方を貫き、基本的に生まれた故郷でそのしきたりに沿って生きていく、あえてニューヨークのような大都市に出ていく気はない、という発想そのものが南部的価値観で、この映画はそれがとても色濃く出ている。興味深い作品で、1946年という時代になぜこれが作られたのかも考えてみたい、そして、この映画にやや共通するものを持っているのは「風と共に去りぬ」だが、あの作品も今アメリカでは差別的だとされて批判を受けていることを付け加えました。

私はその後の打ち上げの場でしたが、フェンビー兄弟というのは、幼くして既に労働者として家で働いている。貧しい家庭だから仕事もしなければならず、中に出てくる子犬も、全部はとても飼えないから、体の小さい役に立ちそうにもない子犬は処分しなければならない。そういう環境にあるから、同年代なのに、豪邸に住み、自分たちよりいつもきれいな、貴族的な服を着せられている主人公の少年をいじめたくもなる。そして兄弟の妹だけは、両親が、たぶん何とか上の階級の仲間入りをさせたいのか、精一杯綺麗な服を着せて可愛がっているが、そのこと自体も気に食わない。ある意味、あの映画の中で最もリアリティのある人物だ、と付け加えました。

映画を観てくださったほぼ全員が、黒人俳優、ジェームズ・バスケットの名演には驚嘆。アニメと実写をかなり力業的に合わせているのですが(1946年でここまでやったのはすごい)それにバスケットが見事にアニメの絵と「会話」している。映画出演作はこれ一作の黒人ヴォードビリアンが、事実上封印作品となってしまうのは、彼の名演のためにももったいないという点では一致しておりました。

次回上映会は12月に行う予定です。ぜひ皆様またご参加ください。

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