前原一誠と古川薫

先日天国に旅立たれた作家、古川薫氏の著書に、「山口県人」(新人物往来社)という本があります。小説家としていい本をたくさん書かれた方とは思いますが、明治維新150周年を記念して、今日は維新後、政府と戦って斃れた武士の紹介をさせていただきます。前原一誠に率いられた萩の乱について、古川氏の本から引用します。

「前原一誠は高杉晋作と共に幕末の討幕派の功臣として重く用いられ、戊辰戦争では越後に出陣し山県有朋に代わって官軍参謀となった。明治二年には越後府判事を命じられ、信濃川の治水工事を進め、また租税を半減するなどの善政をほどこぢたりもしている。

後参議となったが、木戸孝允や大久保利通と意見が合わず、参議を免じられ、暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔に就任した。その在任中、脱隊兵事件がおきた。

(三浦;戊辰戦争が終わり、明治二年、官軍として編成されていた長州兵5000名のうち約3000名を除隊させる処置がとられました。しかし、除隊兵たちへの恩恵や、負傷したもの、障害を持った兵士たちへの保証がほとんどなく、長年奇兵隊や遊撃隊として討幕戦争の先頭に立っていた彼らの不満が爆発、兵士たちが抗議し抵抗、討伐されて133人が処刑されるという悲劇が起きました)

前原は、脱隊兵討伐を主張する木戸の意見に反対し、結局この職も辞任して、明治3年に下野、前原は萩に還った。

彼が明治政府中枢にいる木戸らに反抗して萩に還ったと知ると、この地にいた不平士族は指導者を得た思いでたちまちその周辺に集まってきた。前原が蜂起するまでにはかなり曲折があったが(中略)討伐隊と前原の反乱軍が衝突したのは明治9年10月31日で、闘いは翌月の6日まで続いた。この日の総攻撃で鎮圧され、前原らは捕らえられた。

(三浦:12月3日、前原ら指導者は処刑されました。前原一誠は42歳でした。処刑された中には、奥平謙輔という武士がいました)

奥平謙輔については、先般、山口新聞に、宮塚蹟氏が「会津人の所感」として一文を載せている。

『私は会津の出身である。萩市に旅した時、会津人には忘れることのできない恩人である奥平謙輔の旧家を探し求めた。彼は官軍でありながら、よく会津の心情を理解し、会津の土地を愛し、焼土の中から立ち上がる希望を植え付けてくれた人である。私はせめてその霊前に香を手向けようと、何日も探しまわった。ある日の夕方、萩刑務所の路傍に、倒れかけた碑石を見つけた時は、思わず眼がしらが熱くなった。』

前原一誠が、越後判事時代、租税を半減して人民から感謝されたとき、奥平謙輔も判事として在任しており、前原と意気投合し、それ以来運命を共にしたのである。

闘いに疲弊した土地の租税を減じ、あるいは脱隊兵に同情して討伐に反対するといった前原のありかたは、中央集権国家の完成に全力を投入している木戸らの眼には、情に流される安易な感傷に見え、むしろ目的遂行の途上にあっては有害としか映らなかったに違いない。

それは、百年の大計を考える時代の指導者にはふさわしくないというのだろうが、この時代にそんな心優しき人々がいた事実に、我々が一抹の救いを感じたとしても決して誤ってはいないであろう。」(古川薫「山口県人」)

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