「バテレンの世紀」とトマス荒木

今回、潜伏キリシタンの世界遺産登録がすすみつつあります。私は、当時豊臣秀吉や家康がキリスト教を禁教とし(実はそう単純ではないのですが)たこと自体は、日本という国と文化を守るために必要だったと思います。しかしまた同時に、キリスト教との出会いは、日本にある文化的衝撃を与えたことも事実ですし、その中で日本なりのキリスト教を追求した人もいました。かくいう私もキリスト教に大変影響を受けている人間の一人です。ただ、だからこそ、キリスト教が侵略の思想として機能していたことも忘れてはならないと思います

そのあたりを総合的に論じたのが、渡辺京二の「バテレンの世紀」で、正論3月号に掲載させていただいた私の書評を基に、加筆の上紹介させていただきます。

書評「バテレンの世紀」渡辺京二著 新潮社

三浦小太郎(評論家)

 本書が通史として描き出す、1543年、ポルトガル人が種子島に漂流してから1639年の「鎖国令」までの約1世紀は、日本が西洋文明との「ファースト・コンタクト」を体験した時代だった。

「大航海時代」と言われたこの時代の、ポルトガルのアフリカからアジアに向けての航海経路開拓は、残酷な奴隷狩りとキリスト教の強引な布教を伴っていた。彼らは、アフリカ人は故郷で生きるよりも、たとえ奴隷であってもヨーロッパでキリスト教文明のもとで生きる方が幸福だと、全く信じ切っていたのである。この傲慢な姿勢は、日本でのキリスト教布教を試みた宣教師たちにも共通していた。

カトリックの戦闘的布教集団、イエズス会に属していた宣教師たちは、キリスト教による世界の一元的支配を目指し、その為には手段を択ばない、後のマルクス主義前衛党同様の信念に導かれていた。1582年の天正少年使節団も、このイエズス会の宣伝戦略の一環である。この少年使節団を、送り出した宣教師たちは徹底的に「情報統制」し、要するにヨーロッパの輝かしいところしか見せようとしなかったのも、かって北朝鮮や中国を訪問した左派知識人がすっかり騙されたのと類似の構図だ。

宣教師たちは日本人の様々な美点を称賛しているが、様々な宗教を同時に受け入れる日本特有の寛容性だけは認めなかった。各地で宣教師たちは寺社仏閣を破壊し、仏像、経典に火をかけ、ポルトガルとの貿易を望む戦国領主も、この蛮行を理由にしばしば布教を禁じた。

著者は、仮に日本の仏教僧が欧州に赴き、イエス像や聖書に同じことを行った場合を想起すれば、追放や布教禁止にとどめた領主の反応はむしろ穏健と評し、領主を悪玉視するのは「欧米の文明を人類の正道と信じ、その移入に抵抗するものを反動と決めつける」近代の「因襲」だと的確に指摘する。(ある宣教師は、平然と、日本を征服できる武力があればいいのに、などとまったく何の疑問もなく語っていたのだ)

本書における織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の宣教師への姿勢は、彼らの個性と時代の推移が明確に表れている。信長の、海外からの新知識への純粋な好奇心と、同時に見事な国際感覚。秀吉が交易の必要性は認めつつ、キリシタンが日本国内における独立した政治勢力となる危険性から禁教に向かう姿勢。そして家康の、宣教師の目的は、世界をカトリックへの忠誠に基づく一元化を目指すことであり、「神仏の国」である日本の価値観とは根本的に相容れないとして禁圧に踏み切る決断と、それが必然的に導いた「鎖国」の実現。

この一連の歴史の流れは、日本国内で戦国時代が終焉し、世界では大航海時代の流動化された国際秩序が安定化してゆく過程に生まれた、壮大な政治と信仰のドラマである。

そしてこの時代には、日本人キリシタン、トマス荒木という、宣教師たちの目的は本質的に、布教ではなく支配や領土侵略であることを見抜き、日本人による日本人のための教会設立を目指した信者も登場した。彼は無残な挫折を迎えるが、その思想的苦闘は明治時代の近代的知識人同様、本格的な西欧との対決であった。

本書はグローバリズムの功罪、特にその否定面が明らかになりつつある現在、様々なことを教えてくれる歴史書である。(終)

追記;上記の「トマス荒木」について付け加えておきます

トマス荒木は、生まれた場所も年もわからない、おそらく身分も低かった人物ですが、キリスト教に魅かれ、ローマにまで赴いて6年間を学び、司祭に叙任されました。

しかし彼は、ヨーロッパで学べば学ぶほど、キリスト教の教えとは別に、宣教師たちの本音は日本の征服としか思えなくなったようです。1615年帰国後も「キリスト教の法は真実であるとしても、これを日本で広めようとするパードレたちの意図は、日本を自分たちの国王に従わせようとするものである」と説きました。

おそらく彼は、当時のイエズス会とは違う独自なキリスト教を説こうと思い実践したはずですが、残念ながらその記録は残されていません。1619年に捕らえられ、いったんは脱走しましたが、数日後、ローマの司祭服を着て自首しました。その後、獄中で棄教しています。

その後、荒木はキリスト教への知識を重用され、宣教師摘発に協力したということから、背教者、卑怯者という悪罵を浴びせられました。しかし、荒木には荒木なりの思いも信仰もあったはずだと私は信じます。

そして約30年後、14人のキリシタンが彼の目の前で処刑されたときに、ついに彼の精神は崩れ、激情に駆られて「判決は不当だ、刑の執行者は永遠の罰を受ける」と叫びだし、狂人として再び獄に送られ、そのまま死んだといいます。

トマス荒木について、わかっていることはそれほど多くはないようですが、私は勝手な思い込みかもしれませんが、この方は、この時期最も真摯にキリスト教と向き合った偉大な信徒だったように思えてなりません

You can leave a response, or trackback from your own site.

Leave a Reply

Subscribe to RSS Feed