「パッチギ2」批判。公開直後に書いた文章です。たぶん没になった原稿なので不憫なので公開

昔書いた文章を見つけました。たぶん、どっかの雑誌に出そうとして没になったやつだと思う。不憫なのでここに置いておきます。

パッチギ2 Love&Peace批判

イデオロギーが表現を殺す時
三浦小太郎

この映画は冒頭からリアリテイを失う

井筒監督との出会いは、深夜のあるイベント会場で観た「ガキ帝国」だった。大阪の不良少年達の、滑稽でどこか悲しげな青春群像が、あらゆるタブーを廃した形で描かれていた。そして何よりも印象的だったのは、会話に飛び交う朝鮮語である。1980年段階で、これだけ在日コリアンが明確に、しかも一切の政治的テーマとは関係なく描かれたことは少なかったのではないだろうか。

「ガキ帝国」も、明示はしていないが、1960年代中番の大阪を舞台に描いていた。井筒監督が、自分の青春時代である60年代、70年代の日本に拘るのは理解できる気がする。「パッチギ」も、この時代に拘ったものだ。しかし、あの「ガキ帝国」での自由闊達な井筒の魅力は、一体どこに言ってしまったのか・・・そう思わざるを得ないほど、今回の映画は政治的メッセージを背負わされて硬直化している。映画で政治的メッセージを語っていけないというのではない。しかし、そのメッセージが映画を殺してしまい、映画からリアリテイを奪ってしまっては最悪である。

まず、この映画は、国士舘高校と在日コリアンとの旧国鉄電車内での激しい殴り合いで幕を開ける。このあたりは、ケンカ・アクションを撮らせたら一流の井筒節がいい形で発揮されており、凄まじい乱闘シーンが繰り広げられる。普通、あそこまでの大乱闘になれば誰かが警察をもっと早く呼びそうなものだし、駅員が総出で出てきそうなものだが、まあそこはフィクションとして結構である。

そして、この映画では、挟み込むような形で戦争中の朝鮮半島、済州島のシーンが入れられる。主人公アンソン(井坂俊哉)の父、ジンソン、母の弟ピョンチャンらは、戦争末期徴兵に取られ、そこから脱走として東南アジアのヤップ島に船で逃れる。ここで、もう映画として最初の破綻としか思えないのは、余りにも軽々と脱走し、夜陰にまぎれてとはいえ余りにも簡単に済州島を脱出して簡単にヤップ島にたどり着くことだ。こういうところを、本当は活劇を撮る監督なら注意しなければならないのである。そうそう簡単に軍隊から脱走などは出来ないし、又南の島にたどりつけるわけではないのに、そこはあっさりと描かれもしない。

「挺身隊」に「強制連行」される親族の娘とか、実際には朝鮮半島では自分の意志による応募兵が主だったのに、戦争末期の徴用、徴兵の有様だけが描かれているとかの歴史的事実の不備を私はどうこう言おうとは思わない(最も、いわゆる吉田清司の「済州島で若い女性を強制連行し慰安婦にしました」という証言が虚妄、少なくとも誇張である事は多くの研究者によって明らかにされてきたのに、わざわざいまさら誤解されるような映像を撮るのは映画からの共感を削ぐ意味でもマイナスだと思うのだが・・・)。あくまで、歴史をどう描くかは歴史の解釈の問題だし、映画が歴史的に「正しく」ある必要はないから。しかし、このように安易な脱走劇を描く必要がどこにあるのか?なぜ南の島に簡単にたどり着くのか?フィクションならフィクションとして、その逃走劇を見事に描いてこその映画的リアリテイだろう。ここまで無理に設定するのは、単に、最終シーンで、米軍に爆撃され、逃げ惑う日本兵、犠牲になる島民、そしてそこから何とか逃れたコリアンと言うストーリーに必要だから当てはめたに過ぎない。これは政治的テーマによる映画の歪曲である。

さらに、筋ジストロフィーで苦しむアンソンの息子、チャンスを助けるため、そして自分自身の力を確かめたい為、アンソンの妹、キョンジャ(中村ゆり)は、偶然であった弱小プロダクションに属して芸能界入りを目指す。一家や親族達が「芸能界は在日ばかりだから、きっとうまく行くよ」と語り合うシーンは中々ほほえましい。しかし、これ以降の彼女の描かれ方は余りにも図式的となり、せっかくの好演が生かされていない。

石原慎太郎を無理に持ち出すのも

映画としては破綻を招いている

キョンジャは芸能人として、在日であることを隠さざるを得なくなる。そこまではいいし、その悔しさや矛盾は、この時代の芸能人は皆共有していたかもしれない(同時に、演劇の世界では、李礼仙など堂々と名乗っていた人がいたことも事実だけど)。そして、「太平洋のサムライ」という戦争映画のヒロインのオーデイションを受けるが、在日である為、パスポート上の問題などを理由に一度は拒否される。「差別するんじゃないけど、面倒なことが嫌だから」というプロデユーサー三浦(ラサール石井)の言葉に彼女は決然と席を立つが(ついでに言うと偶然とはいえ私の苗字と一緒というのは辛いなあ)、その後三浦は「あの眼(怒って立つときの眼)は三国人の目だねえ」と露骨に馬鹿にするのだが、こういうとき、普通この手の人間なら、「あれは朝鮮人の目だねえ」とか「チョンはすぐ怒るな」というのではないか?差別主義者を打ちたいのなら、逆にここまで言わせたほうが映画としてはいいはずなのだ。これをわざわざ「三国人」と言わせた意志は明確である。これは石原慎太郎を匂わせたいのだ(特攻隊映画を撮るプロデユーサー、という設定事態がそのものではあるが)。石原知事を批判したいならそれは明確にそういう映画を作ればいい。こういう無理な形でのごまかしは映画として矛盾をきたすだけだ。

そして、キョンジャは、良心的な理解者である俳優、野村健作(西島秀俊)と恋に落ちるが、最期に、両親にあってくれませんか、と結婚を持ちかけた段階で「無理に決まってるだろ、俺の両親だって(朝鮮人との結婚を)承知するわけない」「人種が違うんだ」と言われて泣きながら飛び出す。確かにこの男性はとんでもない人間だと思うが、元々、芸能人間の付き合いにおいて、ある程度親密に成ったからと言って早々簡単に結婚話やら何やらがスムーズに行くものだろうか?そして、こういう結婚差別を巡る問題は、両者が時には傷つけあい、時には励ましあいながらしか進行しないものであって、いきなり結婚を持ちかける女性もちょっと単純すぎるし、それに対し、ここまで差別的発言で答えると言うのは、よほどの単細胞の男性である。それは、これまでの良心的な演劇青年としての野村自身の映画の中の像ともかけ離れている。「奇麗事を言いながら根本では差別者」という人間を井筒監督が批判したいのは理解するが、この様な単純な描き方で本当の偽善者を効果的に撃つことはできるのか?できすぎたシーンとしか思えない。

そして、キョンジャはその足でプロデユーサー三浦の元を尋ね、その体を売る形で映画のヒロインの役を得る。芸能界とは様々なスキャンダリズムの場ではあるけれども、これほど単純なやり方で役が得られるものではないだろう。この手の女優が売り込みに来て、もしもこのままヒロインに抜擢し、その映画がこけたらどうなるのか。下品な言い方をすれば「ああ、あのプロデユーサー馬鹿女に誘惑されて無駄金つぎ込んでやがる」と笑われて終わりだろう。こういう女優にチョイ役か、精々3番手くらいの、仮に彼女が大根でもそんなに映画の被害がない役ならばこういうことはありうるかもしれないけど、ホテルに訪ねてきたからヒロイン抜擢とは、逆に余りにも図式的な説得力のないストーリーではないか。それに、一度は偽善的な差別主義者として描かれた人間が、こうして尋ねて来れば在日だろうとなんだろうとヒロインにすると言うのも、なんだかむしろこの男性が妙に融通無碍なキャラに思えてくる。悪役の描き方としても失敗しているのだ。

弱者同士が連帯するというのは

余りにも古い左翼図式である

この映画には、冒頭の国鉄内での乱闘に国鉄労働者として巻き込まれた、東北出身の純朴な青年佐藤政之(藤井隆)が、唯一コリアンとも理解しあう役として登場している。彼はキョンジャに恋心を抱く善良な人間として描かれるが、母親に捨てられ、施設で暮らした辛い過去を持つ。確かに、この様な社会からも家庭からも疎外された人間が、同じように差別された少数派に連帯意識を持ち彼らとよき仲間になることはありうるだろう。しかし、実際の世の中では、遥かに逆の現実、疎外され、差別されたもの同士が逆に対立し、少しでも自分が社会的に上昇しようとお互いの足を引っ張り合うことも、同じくらい多いはずである。

これは決して井筒を単に貶めたいがためにいうのではない。この監督がかって、そのような人間の醜い図式を、きちんと「ガキ帝国」で描いたからこその批判なのだ。「ガキ帝国」では、不良少年同士、在日コリアン同士は、友でもあるが、時には明確に敵として向き合う。ヤクザ組織に取り入るコリアンも、又弱者をさらに迫害する少数派も、あらゆるタブーなく、その卑小な人間性も含めて描かれていた。しかし「パッチギ2」では「弱者、少数派=善、権力者、金持ち=悪」という、余りにも単純な政治図式があちこちで現れ、結果として人間のリアリテイが役者の好演にもかかわらず薄っぺらい。

アンソンは息子チャンスのために、密輸貿易にまで手を出して大金を稼ぐ。ここなどは、井筒なりに、少数派のコリアンが大金を稼ごうとすればこういう手段しかない、という奇麗事ではない現実を描いたつもりだろうし、また、日本人の佐藤政之が、警官に終われるアンソンを、自分の身を呈して逃すシーンを描きたかったのだろう。そこまではよく、佐藤が同じ東北出身の鶴田浩二のセリフを口にしてアンソンをかばって警察に対決する所などはそれなりに印象深い。ただ、その後、この佐藤は、ずっと黙秘したということであっさりと釈放されてしまう。私は刑法に詳しくはないけれども、密輸と、犯人隠匿、公務執行妨害で、何らお咎めなく黙秘を貫けば解放されるのか?だとしたら、この国の警察は随分と甘い。こういうのも、映画的リアリテイを失わせるではないか。

そして、大金を手にしたアンソンも、病院で息子が最早回復不能と知らされて絶望する。母、妹も打撃に打ちのめされる。確かにこれは悲劇だが、同時に、在日だから彼らを襲ったのではなく、やむ終えない運命としか言いようがない。もう助かりようもないのだから、無理に金を稼ぐ為に芸能界で、しかもスキャンダルまで起こしてまで役を採らなくてもいいだろうと言うアンソンに対し、キョンジャは絶望的に、それだけではない、自分はあの朝鮮人部落でだけ生き続けるより、もっと広い社会に出たかったんだ、自分達朝鮮人にはなぜこんな思いをしなければならないのかと叫ぶ。この場面はキョンジャの最終シーンのセリフに繋がるはずのものなのだが、どうにも、あまりに唐突な繋ぎ方にしか思えない。

キョンジャの反戦演説は、

3重の無理な設定の上に成り立っている

そして、戦前のヤップ島に舞台は移り、脱走兵たちはついに捕まり、同じく朝鮮人の日本兵にも暴力を振るわれる。しかし、大規模な米軍の攻撃に日本兵は壊滅、チャンスの父たちはかろうじて戦火を逃れる。このシーンの後、「太平洋のサムライ」公開記念の舞台挨拶で、招待された在日家族、友人達の前で、ついにキョンジャは、この戦争美化の映画にはどうしても馴染めなかったこと、自分はコリアンであり、特攻隊として雄雄しく死ぬことよりも、脱走兵として生き抜いた父を尊敬していることを語り、舞台は騒然となる。

ここは井筒が最も描きたかったシーンだろう。しかし、どうにも疑問となるのは、この舞台設定は1975年。この時期、堂々と戦争を美化し、「軍国少女」を讃えるような映画が作られ、しかも在日コリアン俳優が、悩みながら出演すると言う、これは3重に無理な設定ではないか。映画で、「立派に闘ってきてください」と励ます役をキョンジャは抵抗感を持って演じているが、少なくとも私の記憶では、ここまでのセリフや戦争賛美の映画を75年段階で作れるとは思えない。勿論「最後の特攻隊」などの戦争映画もあったが、あれはあくまで「反戦」が根本メッセージである。偽善であれなんであれ、当時の映画社会ではそうでなければ撮り難かったのではないだろうか。

そして、以下に恋人に裏切られて自暴自棄になったとはいえ、ここまで抵抗感のあった映画に、これほどの意志を持っていたヒロインが拒否もせずに出演すると言うのは、やはりこれも映画的リアリテイから言って無理な設定だろう。この後の映画館での、冒頭のシーンの再現である日本人と朝鮮人との暴動に近い大喧嘩のシーンはきちんと面白く撮られているのに、決め台詞になるべきキョンジャの反戦演説は、私はどこか不自然なにおいがしてたまらなかった。ここでも、「先に反戦メッセージありき」の姿勢が、映画のリアリテイを曇らせてしまったのではないだろうか。

最後のエンデイングで、芸能界を離れたキョンジャとアンソンたちが、家で団欒しているシーンが写る。そこで新聞で、彼らはベトナムでのサイゴン陥落のシーンを知る。「ウリナラもいつか統一やな、その時はウリナラへいくか」と、病魔と闘いながらも明るい息子にキョンジャは告げる。この言葉は、当時はそれなりのリアリテイを在日社会で持っていたのかもしれない。しかし、同時に北での帰国した親族の悲劇は、この映画では僅か1シーン、「又5万円送ってくれとの手紙が来た、ウリナラはどうなってるのか」と触れられるだけである。当時、アンソンやキョンジャの親戚は、北朝鮮で、この映画どころではない悲惨な差別と貧困に晒されていたと言うのに・・・井筒監督が、自分なりの政治的メッセージを映画にするのは構わない。しかし、そのメッセージに囚われすぎることは、せっかくの映画的才能を縛ってしまう。本作は政治的イデオロギーにあまりに毒され、映画が自由を失っていくのを見せつけられる思いがした。

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