阪神教育闘争論

阪神教育「闘争」 冒険主義、挑発、そして北朝鮮幻想
三浦小太郎

はじめに

 第二次世界大戦後、未だに日本が占領下にあり敗戦ショックから立ち直れなかった時代の一九四八年、「阪神教育闘争」という一連の在日朝鮮人による大々的な闘争(秩序の側からすれば『事件』)が発生した。未だにこの一連の闘争は、朝鮮学校に対する自治体の補助金、支援の大きな根拠の一つとなっている。この集会を記念して、一九九八年四月二五日に大阪市内のメルパルクホールにて「四・二四阪神教育闘争五十周年記念集会 真の共生社会は、民族教育の保障から!」(共同代表、金東勲 朴鐘鳴 朴炳閠 田渕直 稲富進 若一光司)が開催され、主催者はホームページ上にてこの日の内容をほぼ報告している。それによれば、この阪神教育闘争は以下のように評価される。

「戦後まもないこの時期、在日同胞は日本の同化政策によって奪われた『民族の歴史や文化』を取り戻すために、全国に六〇〇校以上の民族学校を設立しました。しかし四八年一月、GHQ(連合軍総司令部)の指令を受けた日本政府は民族学校に対する大弾圧を開始し、これに抗議する在日同胞との間で激しい闘争が展開された結果、大阪では一六歳の金太一少年が警官の発砲により死亡するという惨劇すら起きました。この一連の闘争が「阪神教育闘争」と呼ばれるものです。」
「阪神教育闘争に象徴されるような弾圧と、日本社会の無理解の中にあっても、子どもたちに民族教育の権利を保障してやりたいと願う在日同胞と日本人有志の取り組みは、やがて民族学校や民族学級の再建となって結実し、いまにいたるも営々と継続されてきました。在日同胞の子どもたちを自覚的な民族主体として育む上で、また、日本人の子どもたちが誤った民族観を排して真に平等な人間観を身につける上で、民族教育が果たしてきた役割の大きさには筆舌に尽くしがたいものがあります。」(「阪神教育闘争50周年集会の記録」ホームページ:http://www.geocities.jp/edugroup2/50syuunen.htmより)
 そして集会の主催者は、現在に至るまで日本政府が民族教育否定政策を取り続けていると批判し「『民族教育権の保障』が、戦後半世紀を経てもまだ実現されないばかりか、民族教育に対する制度的差別が一向に改められようともしないという現実は、まさに恥ずべき
ことだと言わねばなりません」と述べている。そしてこの州異界における民族学校擁護論は、現在の朝鮮学校無償化を求める論理とほとんど同一のものである。
 では、この「阪神教育闘争」とはいったいどのようなものだったのか。主として「解放後 在日朝鮮人運動史」(朴慶植著 三一書房)「ドキュメント 在日朝鮮人連盟」(呉圭祥著 岩波書店)及び警察側資料などを中心に、まず事件をできるだけ客観的に記していく。

朝鮮人学校への通達と抵抗

一九四七年十月十三日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)民間情報局より「朝鮮人諸学校は世紀の科目の追加科目として朝鮮語を教えることを許されるとの例外を認める外は日本(文部省)のすべての指令にしたがわしめるよう日本政府に指令する。」との通告が行われた。これはこの時期に日本の教育体制を全面的に掌握し改造しようというGHQ政策の一環だった。日本政府はこの指令を受け、一九四八年一月二四日「朝鮮人設立学校の取り扱いについて」という通達を全国県知事に送る。通達の趣旨は以下のものだった。

「日本の法令に服し、朝鮮人子弟は日本人同様日本の公私立学校に就学しなければならない。また、.私立の小中学校の設置は学校教育基本法の定めるところにより、県知事の認可を受けなければならない、義務教育機関における各種学校は認めない、教科書、教育内容等については、学校教育法における総則並びに小中学校に関する規定が適用される、朝鮮語教育を課外授業で行うことは差支えない」
 当時の在日朝鮮人組織の中で最も強大だったのは一九四五年、終戦直後に結成された、左派在日朝鮮人連盟(朝連)である。朝連はこの通達は「日本法令に服従せよとの口実で再び奴隷教育・同化教育を行うもの」と猛抗議し、三月一五日、朝連代表は文部省通達に対し東京都教育局に抗議「①朝鮮人教育は朝鮮人の自主性にまかせる。②日本政府は朝鮮人教育の特殊性を認めること③教育費は日本政府が負担すること④我々の教育機関にも差別なく物資を配給すること⑤占領軍からの教育援助物資を我々にも公平に配給すること⑥我々の教育に決して干渉しないこと」などを要求した。日本政府はこれを無視し、当時の森戸文部大臣は、新学期までに学校が閉鎖されなければ強制執行もやむをえないと発言した。
  各地でこれに対する抵抗運動が起きるが、ここでは論旨上、大阪、神戸の事態のみを論じる。まず神戸市では、四月七日、神戸市教育局長などが、朝連および建青(朝鮮建国促進青年連盟、これは朝連とは別の右派的在日朝鮮人組織)の朝鮮人学校に対し立ち退くように要請が行われ、九日は立ち退き命令が郵送された。同時期、GHQ軍政部フィリップ教育課長も、学校教育法第一三条「学校が次の各号のいずれかに該当する場合においては、それぞれ同項各号に定める者は、当該学校の閉鎖を命ずることができる。 一、法令の規定に故意に違反したとき 二、法令の規定によりその者がした命令に違反したとき」に該当するものとして閉鎖命令を出すことを警察とも決定していた。
 建青の建国学校は一一日閉鎖に同意。しかし、朝連側は神戸市に抗議、閉鎖命令の撤回を求めた。この時期開催されていた朝連第一四回中央員会は「教育はその社会に生存する人民の権利であり、人民のための教育に関する費用は一切政府が負担する」べきであり「日本における朝鮮人民教育の内容はその民族の意志と要求によってなしえなければならない」ことを、「在日朝鮮人教育に対する基本的態度に関する決議」で採択していた。
一二日、朝鮮学校父兄代表団が副知事との面会を求めたが拒否され、一四日、父兄代表団が教育長、学務課長と会見したが、閉鎖命令撤回は不可能と告げられ、知事との直接面会を求める父兄はそのまま翌日朝まで副知事室に座り込み続け、結局七三名が検挙される事態となった。
朝連も妥協を考えなかったわけではない。四月一八日段階で、朝鮮学校が次の四点を認められれば私立学校としての認可申請を行うと発表した。①教育用語は朝鮮語②教科書内容は朝鮮人教材編纂委員会で作りGHQの検閲を受ける③学校経営は学校管理組合が行う④日本語を正課として採用する。朝連代表はこの四点を東京都知事と文部省に伝えるが、すでに方針を決定した日本政府は閉鎖命令を撤回する意志はなかった。
四月二一日、神戸では朝連代表が閉鎖命令の取り消しと一五日の検挙者の釈放を求めて拒否され、二三日、警察官が動員されて三校あった朝鮮人学校のうち、東神朝鮮初等学校、灘朝鮮初等学校への仮処分が強行されたが、西神戸朝鮮初等学校は約一千人の抵抗で阻止された。そして二四日、いわゆる四・二四阪神教育闘争(事件)が勃発する。

四月二四日 兵庫・大阪にて

県庁・府庁を襲撃し閉鎖命令撤回を要求

 四月二四日、学校の強制捜査に抗議して、3万人が県庁前に終結した(この数字は朝連第五回全体大会での報告及び、「在日朝鮮人連盟」(岩波書店)による。朴慶植氏の著作では五千名)。共産党市議堀川一知市議は。午前一〇時に県知事と面会、副知事、市長、市警察局長ら一四名らと共に朝鮮学校問題を交渉中だったが、交渉にしびれを切らした朝連は大挙して県庁になだれこみ、一,二階を埋め尽くし、知事室を取り囲んでドアを押し開けた。この時MP(アメリカの憲兵)が知事を救出しようとピストルを手に取ったが、「撃つなら撃て」と叫んで立ちふさがった婦人に阻まれた。このように県庁が占拠された状態で交渉が続き、知事側から、学校閉鎖命令撤回、朝鮮人学校の特殊学校としての認定、警察側も現在の拘留者を釈放しまた今回の行為者を罰しないなどの文書が出されて、午後六時ごろ人々は県庁を引きあげた。この時のありさまを当時の警察は以下のように記録している。「朝鮮人約一〇〇人が、午前一一時一〇分ごろ突然知事応接室に乱入して机、椅子、電話機、洗面所、衝立、知事室との間の壁を破壊する等の暴行を行って、気勢をあげつつ知事室に突入しようとした」「暴徒は知事室のドアを破壊し数十人が侵入し、一部の暴徒は知事、市長のネクタイを掴んで知事室より引き出そうとし、他の一部は知事室のテーブル、椅子、電話機、呼び鈴などを破壊」し「内外呼応して喚声を上げ」「会議中の関係者は身体の自由を抑圧された状況に陥った。」(この部分のみ「公安条例制定秘史」尾崎治著 拓殖書房発行による)

 そしてこの夜、GHQは市長らを招集、基地司令官メーア少将の名において全国初の非常事態宣言がなされ、堀川市議を含む抗議運動参加者への検挙が始まった。一七三二名(うち日本人七四名)が検挙され、最終的に三九名が裁判に付された。
 大阪でも同様の事態となった。四月二三日、大阪では一万五千人のデモ隊が府庁前に終結、午後二時半に府知事への面会を求めたが知事は不在、副知事が面会したが閉鎖命令撤回の要求には応じられないと断られ、数百名が府庁になだれ込んで知事室や各階を占拠、知事らはひそかに外部に逃れ、大阪市警察局は3千余名を動員して一七九名を検挙した。
 翌二四日、前日の検挙に抗議して約三〇〇名が西成区役所に押しかけ、四名が検挙。午後二時には府庁前に三万人が府庁前に集結し、そこには日本共産党関西委員会川上貫一も駆けつけて激励演説を行った。朝連の代表は知事室で交渉したが、しかし大阪の赤間知事は閉鎖命令は撤回できないと拒否、午後四時に大阪府軍政部長グレーク大佐が知事室に到着、本会談のうちきりと府庁前のデモ隊の退散を宣告し、警察からも解散が命じられる。
 しかし、朝連代表団はこれ以上は抵抗は無理と判断し、後日の再交渉を目指して撤退を受け入れ、デモ隊にもそれを告げたものの、約三分の二が退去したのち、解散反対と代表団をなじる声が続出、府庁に向かいそれを阻止しようとした警察への投石などが起こり、警官隊もホースの放水だけでなくピストルでも応戦、一六歳の金太一少年が犠牲になった。 これが阪神教育闘争である。
 この後文部省と朝連は歩み寄り、五月三日(1)朝鮮人の教育に関しては教育基本法及び学校教育法に従う(2)朝鮮人学校問題については私立学校として自主性が認められる範囲内において朝鮮人独自の教育を行うことを前提として私立学校としての認可を申請する、という二点において両者は調印した。
 この闘争について、朝連自身の自己批判を含む総括が一五回中央委員会にて行われている。①阪神闘争を全国的闘争に発展できなかった②合法性を最大限に活用すべきだという中央の方針が充分に生かされなかった③戦術面で、幹部の政治性貧困、敵の挑発に引っかかった面があった④幹部の間での意志不統一(大阪)などがあげられている(私見だが、現在の阪神教育闘争をまるで偉大な人権運動、民族運動として聖化する傾向のある総連や一部知識人よりははるかにまともな考察だ)。そして、当時もっとも冷静な発言を行ったのは、朝鮮文化教育界(朝連にも建青にも距離を取っていた)会長の崔鮮である。彼は「文教新聞三三号(五月一〇,一七合併号)に、今回の日本政府並びにGHQの処置は、民族教育の抑圧というよりも「教育面からの赤化思想追放を目的とする占領軍当局の指示」であり、現在米軍占領下にいるという現実の中で「児童らを動員して赤旗を振り、人民の歌を歌って官庁を取り巻くという闘争方針」はやめるべきであると述べた。建青も声明を発表、今回の神戸事件の根源は朝連と共産党内部の一部扇動分子によるものであり、在日朝鮮人が占領下の秩序を乱したのは遺憾なことで、法治国家国民として在日は節度を保つよう呼びかけた。民団の朴烈団長は、この事件は在日に対する対外信用を失わせたと批判、在日子弟の教育が「一部共産党的小児病患者」に支配されていることを反省すべきであり、」同時に日本側も官僚的過ぎる高圧な対応や、朝鮮人への無理解などがあると批判、自分たちの結論として「①我々は常に外地にある民族として日常を生活し、それが世界諸外国人の注視下にあることを忘れない②仮にも特権意識を持たないこと」などを自分たちは教訓としなければならないと結んだ。

当時の時代状況と朝連の政治思想

金天海、金斗熔の思想

 では果たしてこの時代、朝鮮半島はどのような事態を迎えていただろうか。

 一九四八年は八月一五日に韓国が、九月八日に北朝鮮が正式に建国、南北の分断は完全に分断される。その背後には、スターリンのソ連の領土的野望と、それに対抗するトルーマン・ドクトリン(共産主義運動の封じ込め。トルーマンは一九四七年三月にこの宣言を行う)の対決もよる、第二次世界大戦後二年目にして早くも米ソ対立が世界的規模で発生していた世界状況がある。そしてさらに言えば、一九四八年四月三日には済州島において四・三蜂起といわれる激烈な内戦が北朝鮮の影響を受けた左派と、また特に越南者といわれる、北朝鮮から逃れてきた反共派との間に生じていた。GHQも一九四七年の二・一スト阻止以後、明確に日本における共産主義者、左派を取り締まる方向に動いていた。
 そして、日本における在日朝鮮人連盟の政治的立場は、結成当初から、日本植民地支配からの解放感によって、戦争中抵抗し獄中に捕らわれていた共産主義者たちへの深い共感を持っていた。これは彼らを必然的に左派の立場に置く。一九四五年九月二四日、当時の在日朝鮮人リーダーたちは政治犯釈放運動を展開、一〇月四日に治安維持法が撤廃され多くの政治犯(共産主義者の他にも宗教者や自由主義者もいたが)が釈放されると、一〇日には府中刑務所から、戦前からの共産主義者だった徳田球一、志賀義雄、そして朝鮮人共産主義運動家としてカリスマ的な尊敬を集めていた金天海などは、在日朝鮮人四〇〇名の歓迎に迎えられた。金天海は「日本帝国主義と軍閥の撲滅」「天皇制の廃止」「労働者農民の政府樹立」「朝鮮の完全独立と民主政府の樹立」をこの時訴え、以後もこの姿勢を変えない。この年一〇月一五,一六日に在日朝鮮人連盟は結成されるが、この段階で右派親日派の追放はほぼ決定されていた。金天海は活動方針を「朝鮮の完全独立と統一の達成、日本天皇制打倒と民主主義政府樹立、そして親日反逆分子の処断」を演説している。この時追放された人々が中心になって右派の朝鮮建国促進青年同盟(略称は建青)が一一月一六日結成されるが、その勢力は朝連に比べればはるかに弱いものだった。
そしてこの時期の日本共産党も、一九四五年一二月、日本共産党四全大会にて中央委員に金天海を選出、これも戦前からの活動家であり金天海と近い立場だった金斗鎔と共に、「朝鮮人部」を作りそれぞれを部長、副部長とした。金斗鎔は金天海の天皇制打倒の姿勢を論理化し、一九四六年二月の機関誌「前衛」創刊号に「日本における朝鮮人問題」という論文を発表する。そこではこれまでの朝連の運動は在日朝鮮人の生活救済や賃金、食料問題などが主たるものだったが、これは本質的なものではないとし、生活問題の解決のためにも日本人民と連帯し「民族闘争を日本人民の解放闘争の方向に結び付ける」ことが重要で、そのためには「重要なことは、いつも大衆の現実的な要求の先頭に立ち、その要求に基づいて正しく闘争を進めながら、その逃走を党の根本目標である天皇制打倒に結びつける」ことで、天皇制打倒なくして日本人民の解放も在日朝鮮人の解放もあり得ないとした。
筆者はこのような金天海や金斗鎔の姿勢が、戦前から共産主義の立場から戦争に反対して逮捕されても節を曲げなかった信念、さらにはかっての大日本帝国への激しい怒りなどによって生まれてきたことは理解できる気がする。特に金斗鎔の場合、心親しくしていた小林多喜二を殺害された(金は多喜二の思い出を文章に綴っている)ことが彼にとって忘れがたいものだったろう。しかし、日本共産党の反天皇制論の理論的根拠はコミンテルン、実質的にはスターリンのソ連が発表した三二年テーゼである。ここには「一八六八年以後に日本に成立した絶対君主制は(中略)絶対的権力を掌中にたもち、勤労階級に対する抑圧と専横支配とのための、その官僚機構を不断に完成してきた。日本の天皇制は一方主としては地主なる寄生的、封建的階級に依拠し、他方にはまた急速に富みつつある貪欲なブルジョアジーに依拠」しており「天皇制は国内の政治的反動と封建性の一切の残存物との主柱である。天皇主義的国家機構は搾取階級の現存の独裁の警固な背骨をなしている。これを粉砕することこそ、日本における革命的主要任務の第一のものと見なされねばならぬ。」と書かれているが、これは日本に実際に生活したことのない外国人が数字とイメージだけで書いたものとしか思えない(このテーゼがソ連側によって書かれ日本人はほとんど関わっていないことは加藤哲郎氏の研究に詳しい)。ここでは難しい共産主義理論ではなく、現実で言ってみよう。このテーゼを提起したスターリン時代のソ連は、全体主義体制の元ウクライナなどの大飢餓と、その後の大粛清を行い、収容所群島を生み出していくのだが、日本は戦前であれ戦後であれ、もちろん幾多の過ちを犯し社会矛盾にも悩んだとはいえ、スターリンに絶対専制政治といわれるいわれはない。
しかし徳田球一もこのテーゼの信奉者であり、金天海、金斗鎔もおそらく同様だった。しかし、この時点でも日本の一般国民の間には反天皇制運動どころか、むしろ、昭和天皇の人間宣言、そして一九四六年からの神奈川にはじまる「全国巡幸」(昭和二十九年の北海道まで八年を有する)を、少なくとも多数の日本民衆は歓迎をもって受け入れ、マッカーサーも巡幸を全面支持していたのである。
この様な国民感情に対し、正直金天海も金斗鎔も十分な知識を持っていなかったか、もしくは、天皇を歓迎するような民衆は遅れた意識の人間にしか見えなかったのかもしれない。しかしそれならば、「日本民衆との連帯」などはありえない。また、三二年テーゼを盲信した人たちがスターリンのソ連の残酷な粛清と収容所での人権侵害に無知だったのと同様、朝練メンバーもまたソ連を、そしてソ連によって「解放」された北朝鮮の実態と金日成の招待についてはこの時点では知る由もなかった。
一九四八年九月北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国が建国すると、朝連は祝賀行事を開き、この建国を「祖国の歴史上一代光明」であり、この国だけが祖国だと讃え、さらには祝賀代表団を北朝鮮に送ろうとした。もちろんこれはGHQと日本当局により差し止められる。また朝連は、国旗掲揚闘争として北朝鮮国旗を様々な大会で掲揚しようとするが、これは韓国でも南労党が行ったように公然と北朝鮮支持の示威行動となった。そして一九四八年一二月、未だに明確には明らかにされていないが、平壌に向け非合法的に朝連の慶祝団が渡り金日成と面会している(参加者は約一〇名)。また朝連は一九四八年一〇月の第五回全体大会で「南朝鮮反動分子たちの暴力的権力機関の打倒」「朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとの全民族の統一」を掲げていた。
正直ここまで明確に親北の姿勢を示せば、当時占領軍下にあり、かつ日本は始まった東西冷戦の中で現実的にアメリカに着くこと以外に選択肢がない状況下で、朝連が危険な反米・親北団体とみなされたのはある意味当然だったのではないか。さらに日本が主権を回復し民主主義が確立していた時代ではなく、占領軍の方針下に原則的に従い、その範囲内でしか、言論であれ政治方針であれ選択できる自由はなかった時代である。そして一九四九年九月八日、朝連は法務府によって暴力主義的団体として解散命令が出される。解散理由には、阪神教育闘争時の「大挙して大阪、兵庫の府県庁を襲撃し、知事その他の官公吏に対して暴行、監禁、脅迫の不法行為におよび」「占領軍にも反抗し」たことも理由の一つに挙げられている。こうして一九四九年一〇月、朝連が団体等規正令により解散すると、全ての朝鮮学校が閉鎖された。ただし、朝連と直接関係のない中立系の白頭学院(現在の建国小学校・中学校・高等学校)は存続が認められた。
この後の在日朝鮮人運動は朝鮮戦争の勃発とともに新たな様相を見せていくが、結局、朝連を引き継いだ在日朝鮮統一民主戦線(民戦)は祖国防衛隊という非合法組織を組織し、当時の日本共産党と共に武装闘争や対米軍闘争に向かい、戦い疲れたのち自壊し、完全な北朝鮮の従属機関に過ぎない朝鮮総連に姿を変えていく。あとは帰国事業を待つばかりである。

現在の朝鮮学校弁護に阪神教育闘争を持ち出すのは歴史への侮辱

  こうして阪神教育闘争(事件)を振り返るとき、繰り返すが、当時はGHQによる軍事占領下であるという現実、在日朝鮮人運動が必ずしも国民的支持を受けているのではないことを考えれば、この闘争方針は不毛な冒険主義の面を持ち、かえって一部左派を除く日本民衆の支持を遠ざけたことは、当時の朝連や違う立場の在日朝鮮人をも指摘していたことである。また思想的には、三二年テーゼへのこだわり、北朝鮮やソ連への、当時は知らなかったとはいえ独裁体制への幻想などと共に、在日朝鮮人運動をそのまま日本の左翼運動と直結できるという余りにも単純な姿勢があったことも、朝連全体の政治行動を狭めてしまっていた。朝連が強制解散され学校が閉鎖されたとき、日本民衆レベルでの大規模な抗議運動が起こらなかったのは否定できない事実である。

 私は後知恵で、この時代に命を懸けて(実際一六歳の少年も亡くなっている)民族運動と共産主義革命の夢を見た人たちをただ一面的に否定しようとは思わない。特に金斗鎔達の姿勢の根本には「労働者は祖国を持たない」「民族主義を超越してインターナショナリズムへ」という明確な思想があったからこそ、日本革命の夢を日本で日本の労働者と共に戦おうという意識があり、これが日本共産党への積極的な参加に繋がって行ったのだと思う。そこには、戦前から繋がる共産主義革命の夢も民族連帯の意志もあった。また、当時の米軍は日本を反共基地とすることが目的であり、朝連を弾圧し田野も自由や人権のためでは無論ない。東西冷戦とソ連崩壊は、相対的に西側の正しさを証明したが、それはあくまで結果論であって、当時の韓国李承晩政権も多くの問題を含んでいたし、済州島での右派の凶暴な暴力を肯定する意志は私には全くない。
しかし、今現在、朝連の過ちを観ず、闘争方針を含めて阪神教育闘争を全面肯定することはもはやすべきではないだろう。現在の兵庫県における朝鮮学校への補助は(また最近までの大阪での補助もまた)この阪神教育闘争が大きな影響を与えており、現在の無償化論者も常に引用する傾向があるのはこの闘争の栄光である。事実を冷静に見るとき、府庁・県庁の占拠、事実上監禁、暴行、破壊行為とみなされても仕方がない状態での「交渉」、しかも米軍という最高の軍事権力に対して戦略なき抵抗を行い、ついには金日成支持に向かっていった運動を、全面的に評価することはかえって歴史に学ばない姿勢である。
そして、この点だけは朝連を弁護しておきたいが、少なくともこの時代の朝鮮学校は、在日の教育としての自立性は有していた。在日朝鮮人が、時にはバラックを、時には自宅を利用して校舎とし朝鮮語を教え、そこでは、たとえ偏向やあやまちがあったにせよ、解放された民族の誇りも未来への夢も真剣に語られていたはずだ。しかし、現在の朝鮮学校にあるのは最悪の独裁政権礼賛と嘘の歴史ばかりである。在日朝鮮人が命をもかけて守らなければならない学校とは、民族教育とは、政治犯収容所を作り朝鮮民族を弾圧し、ついには飢餓地獄の中民衆が百万単位で死んで行っても核開発とミサイルを作るような今の北朝鮮独裁者を讃えることではないはずだ。もし現在の朝鮮学校を民族教育というのならば、それは在日朝鮮人の戦後史への侮辱である。
金天海、金斗鎔はこの時代に北朝鮮に戻り、その後の行方は分からなくなる。彼らの激しくはあるがどこか悲劇的な生涯の最後も、未だに北朝鮮の闇に閉ざされたままなのだ。金斗鎔は生前の小林多喜二について次のような言葉を残している。
「僕は同志小林と一度も話し合つたことはない。だが昨年の三月か四月か、二度ばかり顔を合せたことがある。二回とも作同の事務所で。丁度僕が、出獄後初めて事務所に行つたとき、そこに同志山田清三郎がみえ、まもなく、大きな眼と大きな鼻をした和服姿の男がみえて、ばかに元気よくしやべつてゐた。後で彼が小林であると聞いて「独房」の中の主人公も監獄から出て一晩中しやべつてたと書いてゐたが、本当の作者もよくシヤべる人だなと思つたりした。二度目に逢つたときは、彼は事務所の炊事場のたゝきのところへ入つて来ながら「今泣いてきた」と云つて眼の涙をふいてゐた。そして「おれたちだつてたまには泣くときがあらあ」と云ひながら、すぐ出て行つてしまつたが、そのとき、そこにゐた、金龍済君も「何故泣いた」とも何とも理由を聞き質さなかつたので、僕も何故、あのとき彼が泣いたんだらうかを、今も不思議に思つてゐるが、とにかく、僕には、彼はやはり感じ安い涙脆い人間かなといふ印象が与へられてるわけだ。」
 多喜二が殺された後の回想である。
果たして金斗鎔、金天海らが北朝鮮で何を思ったのか、小林多喜二と同じように、今度は北朝鮮の独裁権力によって苦しみ、そして殺されていった民衆の姿を知った時に何を感じたのか、そして自らもどのような運命をたどったのか、今は想像することしかできない。しかし、彼らは多喜二のように、きっと最後まで苦しむ北朝鮮民衆への涙を失わなかったと信じたい(終)
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