11月12日は東トルキスタン独立記念日、10年以上前の講演ですが想い出として掲載します

以下の文章は、2006年だったと思いますが、殿岡昭郎先生の主催する、おそらく日本では初めてではないかと思いますが、東トルキスタン共和国独立記念日を祝う集会で私が講演したものです。今読むと間違いも散見し、特に後半はあまり意味のないものとはなっていますが、想い出として掲載しておきます。

本日は、通常日本では「新疆ウイグル」といわれております、東トルキスタンの独立記念日を祝う集会にお越しいただきありがとうございました。日本でこのような集会が行われるのは多分初めてのことと思います。本日は、東トルキスタン共和国の独立とはどのような経緯で生じたものなのか、その歴史的意味合いとは何なのかについて、私なりに簡単に述べてみたいと思います。なお、この問題、また中国の民族問題についてより詳しくお知りになりたい方は、毛里和子著『周縁からの中国』(東京大学出版会)を是非お読みください。最も公正な学問的著作であると思います。なお、本日はいまだに一般的である新疆という言葉を便宜上地域名として使わせていただきます。

 1933年、新疆地域は、盛世才といういわゆる軍閥がクーデターを行い、政治的に支配しておりました。盛世才は政治的には親ソ・新中国共産党の政策を採り、同時に中華民国政権とは独立した勢力を築こうとしていたのです。実際、ソ連もこの地域に親ソ政権ができれば中国に対して圧力をかけられるわけですから、経済的にも軍事的にも積極的な援助を行いました。多くのウイグル人、カザフ人がこの時期からソ連に留学していること、ソ連の影響の強いエリート層が作られていたことは、今後の新疆の運命に大きな影響を及ぼすことになります。

 しかし独ソ戦が勃発し、ソ連が当初のドイツの電撃戦の前に敗北の一歩手前まで追い詰められると、盛世才は直ちにソ連を見捨て、それまでは国内で活動を許していた中国共産党員をも逮捕し、さらには外交官以外のソ連人を全員国外追放し、急遽姿勢を転換して蒋介石の国民党との接近を図ります。1943年1月から国民党の大軍が駐屯し、約10万人の兵士が新疆に駐留しますが、軍隊というのは生産をする機関ではありませんし、もともと経済的に豊かなわけではなく、農業、牧畜などの平和な生活を営んできた新疆にはあまりに重い経済的負担がかかるようになりました。ウイグル人、カザフ人は、労役や挑発に苦しみ、ソ連との貿易の停止がさらに経済に打撃を与えます。しかも、誇り高き遊牧民から1万頭もの軍馬を徴発するなどの、各民族の精神を踏みにじる行為が続発しました。

 しかし、ここまで其の時其の時のマキャベリズムだけで同盟関係を変えるような政治家は結局信頼されないのですね。盛世才と国民党との間には次第に対立が生じ、国民党は軍事的圧力の元結局1944年8月に盛を免職し、無理やり重慶に連れ去ります。新疆がこのような政治的混乱の只中にあったときに、東トルキスタン独立への民衆運動、そして各国の干渉が起こったのでした。

◆独立運動とソ連の干渉

東トルキスタン国旗 1944年春から、新疆では激しい武装闘争が始まります。盛世才の独裁体制、そして国民党の軍事支配と経済的搾取に抵抗するゲリラ闘争です。「3区革命」と呼ばれる激しい民衆の戦いは、主としてイスラム教に基づくものでした。同時に、この地域での覇権を再興しようとするソ連の軍事顧問団が参加しており、またゲリラ軍はソ連で軍事的拠点を持ち、軍事訓練や指導なども受けていました。

 各民族のゲリラ軍は連合して進撃、1944年11月12日、民衆軍はクルジャ地域全域を占拠、東トルキスタン独立共和国を宣言します。独立記念日はこの日を記念したものです。同時に、臨時政府は、直ちにソ連人軍事専門家を呼び、軍事的整備、政治機構の確立を急ぐと共に、45年4月にはゲリラを正規軍に編成、45年9月には東トルキスタン全域を解放、東トルキスタン共和国が歴史に姿を表したのでした。

 しかし、独立運動への流れはここから停滞します。独立軍は首都ウルムチ占拠への進撃を、ソ連軍事顧問により停止され、壊滅寸前だった国民党軍との停戦を余儀なくされます。これは、ヤルタ協定による中ソ交渉、8月14日の中ソ友好同盟、それ以降の中ソの親密化が大きな影響をもたらしたのです。このことはまた後で述べます。

 ソ連の指導による国民党と独立運動側の和平協定の過程で、ソ連政府の命令により、殆ど撤退していきます。続いて、独立運動内部の、イスラム系、民族運動系の指導者が、多くソ連領事館によって病気療養などの名目で退けられ、東トルキスタン共和国自体が解体され、中華民国内部の自治領とされました。46年7月2日、独立派の新聞「革命的東トルキスタン」自身が「今日を持って東トルキスタン共和国は解散を宣言する。(各地域は)省政府の直接管轄下に入る」と発表。東トルキスタン共和国はわずか1年半で終わったのでした。

 では、この東トルキスタン共和国の本質とは何だったのかを見ていきましょう。

◆イスラム勢力と親ソ勢力

東トルキスタン共和国建国直後、臨時政府にはイリハン・トレというイスラム系の指導者が選ばれました。彼の主張には極めて激しいイスラム色、反中国、そして独立への強い意思が現れています。

「目を覚ませ!今は目覚めの時代となった。アッラーは我々の神であり、ムハンマドは我々の聖者であり、イスラムは我々の信仰であり、東トルキスタンは我々の祖国である。(中略)血生臭い圧制を意味する中国の旗は、我々の足の下で踏まれて塵となった。(中略)いわゆる新疆が中国の一部であるというのは真っ赤な嘘である」(共和国成立大会でのイリハン・トレ演説)

 イリハン・トレは主としてクルジャでの民衆蜂起を組織、宗教リーダー、地主、商人、牧主などの支持を受けていました。ここにはいわゆる民主派、進歩派、親ソ派知識人は少なく、ある意味、最も民族主義的、宗教的色彩の強い運動だったとも言えるでしょう。そして、このときに立ち上がった民衆の意識を率直に体現していたのではないでしょうか。

 しかし同時に、親ソ派の民族解放組織が発表した「我々はなぜ闘うのか」では、宗教色はまったく見られず、自分たちが中国ではなく東トルキスタンにルーツを持つ諸民族であることは明確にした上で。漢民族支配排除、民族の平等、民主政府樹立、ソ連との友好関係確立、税の軽減などの方針を打ち出しています。実際の東トルキスタン共和国の政治綱領として発表されたのは後者の思想が中心となったもので、独立、民主化、そして外交的には明確に親ソ姿勢を打ち出したものでした。これは明らかにソ連に近い勢力の意向が反映されたものですが、勿論、この時点では独立への意志は堅持されていたのです。

 しかし、先述しましたように、46年の段階で東トルキスタン共和国そのものが消滅するのは何故でしょうか。これがソ連の影響であることは言うまでもありませんが、当時の世界状況の中で、この東トルキスタン問題を考えてみたいと思います。

 もともと、共和国を成立させた民衆の武装闘争に、どこまでソ連の軍事力が関与していたかはさまざまな説があります。しかし、ソ連が直接に軍事的、物質的支援を行ったことは殆どの論者が認めているところですし、同時に、東トルキスタン共和国と国民党との和解、同時に共和国そのものの消滅がソ連のイニシャチヴで行われたことはほぼ確実でしょう。なお、このことを強調し、東トルキスタン共和国それ自体をソ連の衛星国に過ぎないという視点で論じたのが、王何著「東トルキスタン共和国研究」です。この学者の「多民族社会 中国」(岩波書店)は、以前私たちの機関誌にて批判したようにきわめて悪質な本ですけれども、こちらに関してはソ連の一次資料に当たるなど、研究書として一定の水準を示しているとは思います。しかし、この結論はあまりにもソ連の存在を過大視するあまり、中国支配に対し立ち上がった民衆の力を不当に低く評価し、同時に東トルキスタン独立運動そのものを否定しようとする意志が強く感じずにはおれません。

◆ヤルタ会談が独立運動を失速させた

ヤルタ会談 少し話がずれましたが、ここで重要なのは、ソ連の姿勢が何故変化したかであります。東トルキスタン共和国が成立し拡大していく中、1945年2月、ソ連は英米とヤルタ会談を行います。ヤルタ会談はご存知のように第2次世界大戦の戦後処理を論じたものですが、ここでは中国不在のまま、外モンゴル、新疆なども話し合われ、ソ連は中国の国民党政府と、中国問題、また対日問題では歩調を合わせることを決定します。

 この後、1945年の6月から中ソの交渉が始まり、7月には、中国側から「ソ連政府が新疆の騒乱などを中国が平定するのを援助するなら、中国は外モンゴル問題で妥協してもいい」という提案がなされ、結局この線が合意事項となったのです。外モンゴルはモンゴル人民共和国として独立する(親ソ政権)東トルキスタンは新疆として中国政府に戻す。こうして、ヤルタ協定後、ソ連は姿勢を急変したのでした。

 この姿勢変換にはもう一つの理由があると思われます。東トルキスタン共和国が純粋な親ソ政権、もしくは傀儡政権(たとえば初期北朝鮮のような)であるのならば、ソ連はこの地域の独立を国益にかなうものとして、中国側に対しこのような妥協はしなかったかもしれません。(私はこの意味で、東トルキスタン共和国を単なる衛星国とは考えない立場をとります)しかし、これは推測ですが、現実の民衆蜂起が激烈なイスラム教的、民族主義的思考を示していたことから、ソ連はこの独立国が単なる親ソ政権にとどまらず、ソ連。東トルキスタン国境の諸民族、イスラム教勢力と今後結びつき、中央アジアに大きな勢力となっていく可能性、ソ連のスターリン体制そのものへの起爆剤となることを恐れたのではないでしょうか。

 独立を失って以降、新疆の運命は益々悲劇的な方向をたどります。ソ連の命じる妥協案を受け入れるか否かで、東トルキスタン共和国政府内部にもさまざまな対立、分裂が生じ、結局は親ソ派知識人、アフメトジャン、アバソフらの勢力が、ソ連に従う形で独立を放棄します。1946年5月、アフメトジャンは独立放棄の意志をこう述べています。

「現在、東トルキスタン共和国の自由と自治のために、長期的な流血と戦争を継続させ、さらに大きな被害を人民にもたらすか、それとも第2次世界大戦がすでに終結した状況に鑑み、戦争をやめ、(国民党中国政府との:三浦注)和平交渉の形で解決を図るかという二つの路線しかない。国民政府の領袖蒋介石はすでに、『辺境地帯に住む民族に対する談話』の中で各辺境民族に充分な自治権を与えることを約束しているので、流血の闘争を通じなくても問題を解決できる可能性が出てきた。」

 この『第2次世界大戦がすでに終結した状況に鑑み』という言葉の裏に、中ソという2大『戦勝大国』に愚弄される運命を見る思いがしますが、同時にこの時期、東トルキスタン共和国内部で、いくつかの反漢民族テロルが起き、共和国政府を悩ませていたことも作用していたようです。それまで抑圧されていた民族が立ち上がるとき、どうしてもこのような報復テロは避けられない面があるのですけれども、親ソ派であると同時に、民主的、進歩的知識人だった指導部には耐え難い事態でもあり、一刻も早い事態収拾を図りたい思いもあったのかもしれません。

 しかし、外モンゴル独立承認など、ソ連との関係を優先するためであれ多少は『辺境民族自治』承認の傾向があったこの次期の蒋介石政権は、毛沢東の中国共産党の前にあっけなく敗れ去ります。1948年から49年までの間に、イスラム系、民族主義系の指導者は新疆からソ連の手によって殆ど追放されてしまいますが、さらにスターリンは、毛沢東政権成立後は、早く新疆を「解放」するようアドバイスをする有様でした。

◆リーダーたちのなぞめいた最後

 中華人民共和国成立後、共産党の?力群に語ったアフトメジャンの言葉はあまりにも惨めなまでに、かっての独立運動そのものをほぼ完全に否定してしまっています。彼は民衆の蜂起が自然発生的なものであって、盲目的だったこと、宗教勢力や封建勢力の力が強かったこと、その中で漢民族へのテロが行われてしまった事などを次々と自己批判しました。そして、アフトメジャン、アバソフ、イサクベク、ダリルハンら最後に残ったリーダーたちは、毛沢東から北京に招かれ、1949年8月22日飛行機で旅立ちますが、その11月、バイカル湖上で飛行機事故により全員が死んだという、余りにも不自然な最期を遂げることになります。

 東トルキスタン独立共和国の独立は、以上のように、第2次世界大戦と中ソ両国の力関係の分析無くして理解しにくいものです。しかし、私たちはここで、現在の東トルキスタンの状況の中で、この独立共和国をどのように捕らえなおすかを考えてみるべきでしょう。

 1990年以降、東トルキスタンではいくつもの民衆による抵抗運動が始まっています。その多くは、民族独立とイスラム教に根ざした戦いであり、これは中国が文化大革命以降徹底した宗教弾圧を行ったにもかかわらず、民衆の伝統意識が守られたことを意味します。いや、むしろ、文革から改革解放に移る中国社会の中、あらゆるモラルや伝統が崩壊し、ひたすらな利益追求・経済優先の中で各民族の伝統が益々破壊され、漢民族企業家が東トルキスタンにも大量移入して経済侵略を行っている中、民衆の中に、もう一度民族の伝統と信仰が蘇り、それが抵抗の火種となっているのでしょう。

 そして、この抵抗運動の中で、かっての東トルキスタン共和国は新しい夢として蘇りつつあります。さまざまな大国の力関係に左右され短命に終わったにせよ、中国政府に抗して立ち上がった民衆が、一度は支配を跳ね除けて独立を勝ち得たことは、輝かしい歴史的事実として蘇り、全世界でこのような独立記念日を祝う行事が行われているのです。歴史とは冷たい活字の中に埋もれているのではなく、今ここで生きている人たちの思いの中で蘇るものです。

 同時に、私たちはまた、『歴史を夢見る』と共に、『歴史に学ぶ』ことを忘れてはなりません。では、東トルキスタン共和国は何故滅び、モンゴル人民共和国(外モンゴル)は、たとえソ連の影響下であったとはいえ生き延びたのか。これは中ソの取引による残酷な偶然です。しかし、同時に考えておかなければならないのは、民衆の純粋な怒りや意思だけでは政治的成果を出すことは難しい。常にこの東トルキスタン独立は、中国、現在のロシア、そして中央アジアのさまざまな国々との政治的力学の中で勝ち取らねばならないのです。その意味で、中国国内の各少数民族との連携を深めると共に、独立運動はさらに中央アジア諸国、諸民族との間に深いつながりを持たねばならないでしょう。

◆独立運動の新しい道

 そして、かつての東トルキスタン共和国は、イスラム教的価値観、反漢民族、強いナショナリズムに根ざした勢力と、親ソ派に代表される、民主派、進歩派、また宗教色の弱い勢力とに分断され、結局ソ連に後者が操られる形で失速していきました。この歴史の過ちを繰り返さないためにも、必要なのは、民主・人権、そして国家主権と独立の意志と、イスラムに代表される宗教ならびに民族特有の文化・価値観との融合・連立こそ、独立運動を真に思想的に勝利させる道だという視点です。

 私は昨年夏、トルコのイスタンブールを訪れました。私は亡命政府も独立運動も、トルコのよい面には大いに学んで戴きたいと考えております。トルコはイスラム教国ではありますが、同時にアタチュルクの革命以降、近代国家としても見事に発展し、勿論さまざまな問題はあれ民主的な国造りに成功しつつあります。さらに、全世界のトルコ系民族の祭典を行い、そこには中国からの圧迫を受けつつも、東トルキスタンの代表もまた参加していたのです。イスラム的価値と近代化、民主化、そして民族主義の両立は決して不可能ではないことを、独立運動家の方々が多く在住するトルコでこそ学んで欲しい。民主派とイスラム派、穏健派と、過激な闘争も辞さずという勢力とは、決して対立するものではなく、運動上はむしろ補い合うべきものです。

 イスタンブールで、私はコーランの和訳本を持って行きました。日に数度、コーランの朗誦がマイクを通じて流れるこの近代都市で、コーランの次の文章を読んだとき、たとえ日本語訳とはいえ、少しばかり敬虔な気分になった思いがしたものです。

『どちらの海からも真珠は取れる、珊瑚も取れる』(コーラン・メッカ啓示)

 イスタンブールは、西欧と中東社会、イスラム社会の境の街です。そして、どちらの海からも、欧米からも、中東からも、そしてここアジアからも、それぞれの地域から、それぞれ別の素晴らしいものは取れる。そのような考えが真のグローバリズムです。各地域の、民族の、国々の思想を尊重した上で、民主主義、国家主権、そして民族自決といった、これまで人類が勝ち得てきた価値観を世界に確立していくこと、同時に貧困や抑圧を解決してゆくことこそが、真のグローバリズムであり、それは東トルキスタンをはじめとする中国の各民族を支援することの本質をなすものと考えます。

 私の話は、1944年に、命を捨てても独立のために戦った東トルキスタン民衆や、困難な独立運動やその後の世界情勢に愚弄された指導者に対し、あまりにも冷たいものに感じられた方もいらっしゃるとは思いますが、東トルキスタン共和国とは何だったのかを、皆様がお考えになる参考となれば幸いでございます。(終)

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