「白い罪」からの脱却

「白い罪」からの脱却 

三浦小太郎(評論家)

 アメリカの黒人思想家、シェルビー・スティールの著書「白い罪 公民権運動はなぜ敗北したか」(径書房)は、現代アメリカ社会、そしてわが日本を含む先進国に蔓延する思想的混迷を考えるうえで必読書の一つだと思われるのだが、残念なことに充分な読者をえてはいない。それどころか、人種差別撤廃を唱えたアメリカ公民権運動を「敗北」として総括するような書は日本でほとんど評価も紹介すらされないのが現実だ。しかし、今回のトランプ当選以後のアメリカの政治情勢を考えるうえでも、本書の提起する問題は極めて重要である。

アメリカでは1960年代初頭まで、露骨な人種差別制度が、特に南部では目に見える形で存在していた。黒人が宿泊も、食事も、トイレすらも人種で分けられているような人種隔離政策がとられていた。このような現実的な差別や制度化された人種隔離に抗議し、その廃絶を求める運動が公民権運動として起きたのは当然のことである。しかし、その後公民権運動は、個々の具体的な制度差別の撤廃を越えて、アメリカの社会構造そのものが差別を内在しており、さらに言えば、アメリカ社会を成り立たせているアメリカの伝統的価値観を否定することが目的となっていった。極論を言えば、アメリカにおいて白人であること、白人の伝統的価値観を抱くことそのものが「差別的」「抑圧的」として否定される時代が到来したのだった。

スティールはこれを端的に「白い罪」、白人の罪悪感が増長されることによる、アメリカ社会の道徳的権威の失墜現象と呼ぶ。ベトナム反戦運動、ヒッピー運動、黒人革命、性の解放、そしてドラッグ。すべての「若さゆえの至極普通で単純な叛逆が、新たに興隆して現状に異論を唱える強力な力を持った政治運動によって増長され、自分の両親だけでなく、それを『体制』に対する反抗と位置づけることが許された時代なのである。」(白い罪)

かくして、若い世代は年長者たちに対し、お前たちの世代とその価値観は差別的なのだと批判するだけで「勝利」することができるようになった。しかしスティールはこの姿勢は、かえって若い世代の精神的な成長力を奪ったとみなす。「青二才のままで、歴史のなかから教訓をみつけようとせず、歴史それ自体の価値を貶めて過去を頭から否定し、無謀にも自分には歴史を断ち切る特権があると感じてしまうのだ。」(白い罪)

ここからスティールは、あえて、公民権運動が全否定した白人至上主義の価値観にも、一定の意義を見出そうとする。「白い権威」こと、白人至上主義が失墜したとき、同時に、社会に論理的一貫性と統一感を与えていたなにものかが消失してしまった。スティールは驚くべき公正さをもってこう言い切る。「欧米白人社会が人種主義的で帝国主義的であったとしても、同時にそれは異論の余地のない偉大な文明の中心であった。」しかし、アメリカ60年代の精神は、白人至上主義を否定するあまり、白人社会の伝統的価値観の権威そのものを失ってしまったのである。スティールはさらに具体的に、白人社会の伝統的価値観について次のようにその長所を挙げている。

「個人が責任を負うこと、一生懸命に働くこと、一人一人が創意を発揮すること、より大きな喜びのために刹那的な満足は我慢すること、卓越性を追い求めること、競争は実績のみによって行われること、優れた業績を成したものには名誉を与えること、等々。これらの原則は白人至上主義と長く共存してきた。」この、最もアメリカ的美徳というべき原則が、すべて白人至上主義的価値観として批判され、アメリカは60年代以後、急速にその文化的統一感を失っていく。

 レーガン政権の誕生以後の保守革命、キリスト教原理主義の勃興など、80年代以後のアメリカを激震させた「保守革命」の流れは、おそらくスティールが指摘する文化的統一の復興運動として生じたものである。そして現在のトランプ現象を見るとき、彼やその支持者の「差別的」「白人至上主義的」言説には、まさに「白い罪」という偽善的な精神の桎梏を長年課せられてきた、アメリカ白人層のゆがみが過激な形で表れているかもしれないのだ

そして、黒人思想家であるスティールが勇気をもって提起しているアメリカの問題点は、わが国、いや世界が「文化相対主義」「多文化共生」といった理念と共に捨て去ってきたものが、実は個人にとっても国家にとってもどれほど大切なものだったのかを教えてくれているように思えてならない

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