松平宮司と中曽根「公式参拝」

坪内祐三氏の著書「靖国」(新潮文庫)は、明治・大正時代の靖国神社が意外なほどモダンな場所だったこと、東京という都市における位置づけ、競馬、文学、相撲、そしてプロレスとの関係など、なかなか面白い視点を提起した本で、私としては意見の違いはあっても学ぶところ大きい本でした。

特に、確か学校教科書で読んでいたはずの、安岡章太郎「サーカスの馬」が、その舞台が靖国神社であったこと、大村益次郎の銅像が当時大評判で、完成を待ち望む人が多かったこと、靖国神社は当初神官が置かれず、軍人が祭主だったことなど、靖国神社へのイメージがどんどん広がっていく感があります。力道山がプロレス奉納を行ったことの意味なども興味深いものがありました。しかし、皮肉や韜晦、逆説に満ちた坪内氏が、本書あとがきにおいて、激しく中曽根首相を批判している部分は意外なほど情熱的で怒りに満ちた文章なので、この部分をぜひ読んでほしく一部引用します。

まず坪内氏は、中曽根首相の昭和60年(1985年)の公式参拝を批判した中国政府が、その理由の一つとしてA級戦犯合祀を持ち出したことに対し、それは昭和53年(1978年)に合祀祭によって行われたことであり、翌54年には大々的に新聞が報じていたこと、その時は中国政府は全く騒がなかったことを指摘した上で、より理解できないのは、その中国政府の批判に対する日本の政治家の態度だったと述べています。

「さらに不思議なのは、中国政府の批判に対して、時の自民党幹事長の金丸信や、副総裁の二階堂進や、外務大臣桜内義雄らが、皆口をそろえて、A級戦犯が靖国神社へ合祀されている事実は全く知らなかったと語っていた点だ。彼らは皆、新聞に目を通していなかったのだろうか。(中略)中曽根康弘は、つい数年前(本書が書かれたのは平成11年)、すなわち毎日新聞の1999年6月7日朝刊に載った「靖国問題をどう考える」というインタビューで、「A級戦犯が合祀されていることを、その当時は知らなかったんです」と、まだ、ぬけぬけと語っている。もう老い先の長くない人間だというのに、彼はこの嘘を、墓場まで持っていくつもりなのだろうか。(中略)

昭和53年(1978)7月に靖国神社の6代目宮司に就任した松平永芳は、とても気骨ある人物として知られた。そして彼の気骨は、昭和60年当時の総理大臣中曽根康弘にも向けられた。

と言っても、中国政府の批判に対する中曽根の腰くだけに、ではない。それ以前、中曽根の同年の8月15日の「公式参拝」のスタンドプレーと、そのスタンドプレーからくる非礼に対してである。

靖国神社の「公式参拝」に臨んで、中曽根首相は「政教分離」の原則に反しないために、神社側に「手水は使わない」「祓いは受けない」「正式の二礼二拍手はやらない」と申し渡した・手水や二礼二拍手はともかく、「祓いは受けない」にいたっては「公式参拝」を自称する人物にはあるまじき無茶苦茶な注文だった。

中曽根総理が「公式参拝」にやってきても、自分は挨拶に出ない、と松平宮司は、時の内閣官房長官藤波孝生に答えた。「いかになんでも人の家に泥靴で踏み込むような人の所に宮司が出て行って、よくぞいらっしゃいました、ということは口が裂けても言えない」から。(中略)

(松平宮司の言葉)

「あの時、総理は武道館での全国戦没者追悼式に参列した後、時間調整のためにそこでお昼を食べ、遺族かなんかを参道に並ばせておいて、それからやってきました。(中略)神門から拝殿までの間に、ずっと遺族さん方が並んで拍手で迎えるように取り仕切り、参道の総理に手をたたいている。まるでショーのようなつもりでやってるんです。

しかも、後で夕刊を見て驚いたのは、うちの荒木田禰宜が先導して中曽根総理、それから幕僚として厚生大臣と藤波官房長官を従えているのはよいとしても、その横に4人のボディガードを連れて行動したんですね。私は前日、藤波氏に条件として、記帳したあと、拝殿から中の、いわゆる神社の聖域にはボディガードなんか連れて行かないでくれ、と申しておけばよかったと後で後悔しました。まさかそんなことをするはずがないと思っていました。

うちの神様方というのはみんな手足四散して戦場で亡くなった方が大部分です。そこへ参拝するのに自分の身の安全を図るため4人もぴったりつけてくるなんて言うのは、無礼・非礼のきわみというほかありません。」(後略)以上、坪内祐三「靖国」新潮文庫版あとがきから。

この松平宮司の言葉は、私は靖国を考える上で、常に思い出しておきたい重みのある言葉だと思います。

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