ランボオ詩集を買い直した。今でも粟津則雄さんの翻訳が一番好き

最近、いわゆる新刊というのをほとんど読んでいない。こんなことでは時代に乗り遅れるのだが、古典名作で読んでいないものとかが山のようにあり、あんまり最近の話題作に手が出ない。音楽もそうですが、人間、ある程度の年になると新しいものへの関心を持ち続けるのって難しいのでは。そうでない人もたくさんいることもわかってはいるのだが、自分自身は昔読んだ本の再読やいつか読もうと思っていたものに手が伸びる。いろいろ言われてはいるけどネットで古書はかなり安く買えるし、私は珍しい本ではなく安い文庫の古書を探すのが主流なので。(出版社や著者に還元されなくてすみません)

ランボオの詩、20代か、小林秀雄を読んだ時に一時はまった。でもその後もう数十年読んでいなくて、最近神保町を歩いたとき、新しい訳(ちくま文庫)を立ち読み、なんか30数年前、自分がランボオになったつもりで(これは絶対そうだと思いますけどね、10代、20代でランボオが好きだとか言う奴って絶対自分がランボオだと思い込んでいる人(さらに小さい声で言うとバカ)が多いですよ)読んでいたときとは全然印象が違う!こんなに面白い詩だったのかと感嘆。買おうかなあと思ったけど、結局昔愛読した粟津規雄のほうがいいなあと思い、ネットで集英社文庫「ランボオ詩集 地獄の季節」購入)

以前は「陶酔の午前」の末尾「今や、暗殺者のとき」みたいな言葉にえらく衝撃を受けたものですが、いま読み返すとああいう過激な言葉にはほとんど共感を覚えない。むしろ、粟津氏の流麗な訳の力もあるんだろうけど、むしろランボオが抒情詩人、時には伝説を語りきかせるまれびとのようにみえる詩編の方が心にしみる。「俺は夏のあけぼのを抱いた(中略)俺を最初に誘ったのは もう爽やかで蒼白いきらめきに満ちた小道で、俺に名前を告げた一輪の花だ」(あけぼの)これなんか、サイモン&ガーファンクルの「59番街橋の歌」をすら思い出させる。「コント」の、横暴な君主があらゆる殺戮を行いつつなんの満足も得られず、それがある瞬間精霊と一体化する体験を得る、その瞬間に死んでこそ幸福であったろうに生き続ける姿は、三島由紀夫がこれをベースにしたらすごい小説に生まれ変わりそうな気がするし、同時に、古代や中世の恐ろしい伝説をも思わせる。

ランボオが20歳で詩作をやめたこと、最初に読んだ時は色々と理由を考えたものですが、要するに「飽きた、疲れた」んだろうと今は思う。この詩集をパラパラと読んでいくと、この人には成熟とか成長とかをあんまり感じない。というか、一個一個の作品の関連もあんまり感じない、全く独立したもののように読める。ジミヘンだったか、とにかく自分の頭の中に音があふれていて、それを外に出さないと気が狂う、みたいなことを言っていたらしいけど、ランボオこそそんな人で、頭の中を言葉が駆け巡っていて、それを出さないといけない人生を送っていて、とうとうそれに疲弊し、文学を棄てることでやっと解放されたんじゃないだろうか。でも遺した詩編は永遠に、若い読者を挑発し、こうしてすっかり平凡な中年になって読み返すとまったく別の魅力を感じさせてくれるんだから、とにかくすごいとしかいいようがない。

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