これほどひどい文章も少ないのではないか・・・本多勝一の「殺す側の発起人たち」

時々ここでは三島由紀夫について触れたいのですが(今三島勉強中なので自分のためにもなる)最初、三島についてこういうひどい文章があった、ということを記しておきます。三島由紀夫の自決の後、いろいろな人が三島について語った。でも、私が調べた範囲で、ここまでひどいものは珍しい。(韓国の詩人金芝河が書いた詩もかなりのひどさだったが、これは当時彼が三島の作品を読んでいたとも思えず、伝聞情報で書いたと思うので今更取り上げない。)例えば大江健三郎は「同時代としての戦後」で三島事件を批判的に論じたけど、その文章には批判しつつも三島に魅かれてしまう彼自身の矛盾がよく出ていて、同書の中でも一番いい評論になっている。しかし、この本多勝一の文章、これはひどいを通り越して、書いた人の人格を疑わせるもの。

殺す側の発起人たち 本多勝一 1971年

名を口にするのも不快な一小説家が、江戸時代の職業用心棒としての武士階級の真似をしてハラキリ自殺をしたとき、新聞、週刊誌、月刊誌の多くはたいへんな紙数をこの事件のために費やした。(中略)あの小説家は芸能人的な要素があったようだから、一般的週刊誌がこれに飛びついて、何週間にもわたって洗いざらい書きまくることについては、私も大して違和感を覚えない。ところが、日常的にはそういうゴシップ雑誌として通用しているのではない雑誌(特に月刊誌)までが、いつまでたってもこの小説家のことに洪水のごとく紙面を提供しているのは、いささかうんざりさせられた。(中略)

そうした中で、一つだけ私の興味をつよく引いたのは、「三島由紀夫追悼集会」のための発起人名簿であった。そのまま写せば次の通りである。

発起人総代 林房雄

代表発起人 川内康範、五味康祐、佐伯彰一、滝原健之、武田繁太郎、中山正敏 藤島泰輔、舩坂弘、北條誠、黛敏郎、保田與重郎、山岡荘八
発起人 会田雄次、阿部正路、伊藤桂一、宇野精一、大石義雄、大久保典夫、大島康正、桶谷繁雄、小野村資文、川上源太郎、岸興祥、倉橋由美子、小林秀雄、小山いと子、坂本二郎、佐古純一郎、清水崑、杉森久英、曽村保信、高鳥賢司、多田真鋤、立野信之、田中美知太郎、田辺貞之助、中河与一、中村菊男、萩原井泉水、林武、平林たい子、福田信之、水上勉

こうしてみると、さもありなんというひとがもちろん多いけれど、おや、と思わせられるような意外な人も見受ける。いろんな義理もあったのだろう。(中略)しかし、その「意外な人」も含めて、やっぱり私は問いたいのだ。

日本が朝鮮や中国などを侵略したこと、これを否定することは、発起人の方々もできないであろう。そのとき、それらの国々で、何万とも知れぬ一般民衆を虐殺(中国での三光政策はその典型)したこと。これもまた否定できないであろう。そして、それらすべてが、最終的に「天皇」の名のもとに行われたこと、これもまた議論の余地はないであろう。背景は少しも「複雑」ではないし、侵略側の事情を「理解」して弁護することはない。(中略)発起人の方々よ、右のような事実に対して、あなた方はどう思っているのだろうか。

あのハラキリ小説家が、日本列島に住む一億の人々の、どの層と関連、或いはどの層の意識の中に生きていたかは、もはや説明するまでもあるまい。逆から言うと、庶民、民衆、人民、大衆(何分様々な表現と歴史がある)とは無縁の、いい気な男の一人であって、別にこういう人も多数の中の一人として、他の人々と同じ意味で存在してもいいけれども、その存在は、あくまで「それ相応のもの」でなければならない。侵略する側、すなわち庶民、民衆、人民、大衆を殺す側によって利用され続けてきた天皇制を、またしても利用しようという男、そんなものを、あたかも大思想家や大芸術家であるかのごとく扱うことに、戦後日本の民主主義なるもののいかさま性を暴露する以上の意味はない。

彼の破滅も、このような意味、つまり「殺す側」と「殺される側」のどちらに立つ人間かをはっきりさせるための踏み絵となってくれた点においてだけは、無駄ではなかった。私にとっては意外に思われる人が、この踏み絵事件で「感動」や「衝撃」の反応を示し、それによって当人が「殺す側」に立つものであることを、庶民、民衆、人民、大衆及び虐殺された中国人、朝鮮人そのほかのアジア人たちに示してくれた。(アジア人の眼には、この発起人名簿は、「殺し屋名簿」に見えるだろう。)(後略)

一時は本多勝一に共感していたとか、影響を受けたとかいう人が結構いるんですけど、私はこの人の文章に共感したことって2,3の例外を除いては全くないんです。その理由はまず第一に、この人は文学というものが全く分からないのではないかということと、人間をその政治的立場でしか見ることができないのではないかということ。ま、それはそれとして、こういう文章、よく書けるなと思う。

ちょっと補足しておきますと、実際の発起人はもっと多かった。たぶん、雑誌発表の段階では了解の返事が取れなかったとか、後になってぜひ自分の名前も添えさせていただけないかとか、いろいろあったのではないかと思います。憂国忌関連のネットで調べればわかるのでそれはいちいち書きませんが、私がファンの女優岸田今日子さんとか、ドイツ文学者高橋健二、あと福田恒存、村松剛が名を連ねている。

私はここで政治のことは言いたくない。ある方がなくなって追悼の会を行う時、故人といい思い出があった人なら、お名前を添えてください、というのはごく自然にあるでしょう。勿論中には、私は静かに故人をしのびたいし、そのような場に名前を出すのは控えます、という人もいる。それは、一人一人の自由だ。ただ、亡くなった人をしのぶ会があった時、いかにその故人の思想や行動に反発を感じていたとしても、その会に集まる人間は殺し屋である、などと公開の場で書くものかね?

さらに言えば、この文章には、それこそ庶民大衆を愚民視する姿勢がみなぎっている。じゃあ、三島由紀夫の文学を愛し思想に共感を一部でも覚えた人間は皆「殺す側」であって庶民じゃないの?まあこの時点では知らなかったとしても、庶民・人民を虐殺しまくった毛沢東は確実に「殺す側」だと思うが、本多勝一はこの文章を書いた当時は毛沢東と文革を大変評価していた(証拠は山のように出せますからね)はず。

後余計なことを言えば「別にこういう人も多数の中の一人として、他の人々と同じ意味で存在してもいいけれども、その存在は、あくまで「それ相応のもの」でなければならない」というものいい、これってまさに「ソフト紅衛兵」ですよ。自分が気に食わない政治的立場の人間や階層の人間は「それ相応の立場でいろ」というのは、その人が力を持ったと判断したら叩きつぶすって論理と紙一重。

こういう人が当時のジャーナリズムでは花形の一人だった。そのことにこそ、私は戦後民主主義のいかさま性が明らかになっていると思う。

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