勇怯の差は小なり、されど責任観念の差は大なり(石川時事評論)

この4月「月曜評論」というミニコミを発行されていた編集者、中澤茂和氏が発行している「石川時事評論」下記の文章を寄せさせていただきました。私の文章はともかく大変良質な論考が毎号掲載されております。もし興味がございましたら、北潮社 石川県金沢市広阪1-2-23 電話076-264-1119  ファックス 076-231-7009までお問い合わせください。この時代、きちんと編集をし、かつ印刷しているミニコミを定期的に出しておられるのは意義あることと思います。

勇怯の差は小なり、されど責任観念の差は大なり

三浦小太郎(評論家)

 3月半ばの現在、国会や様々な場面で、政治家、ジャーナリズム、そして自称「教育者」等々から垂れ流されている言説を聴くたびに、おおよそ「責任」「矜持」といったものをここまで平然と捨て去ることができることにある種の驚きすら覚えてしまう。このような人々に対し、今何を言うのもむなしく、大東亜戦争時代、本人が追う必要のない責任までも背負うこと、それが知識人や指導者の矜持というものなのだという精神を、当然のこととして持ち得ていた先人の言葉を、このような時だからこそ思い出したく思う。

 大分県竹田市の広瀬神社は、日露戦争似て戦死した広瀬武夫中佐を祭っている。この神社に、同市出身の阿南惟親陸軍大臣の胸像が設置されたのは、2015年8月のことである。戦後70周年の年に、阿南惟親が地元で正当に評価されたことは、大変意義深いことであった。

 阿南の著名な言葉がある。「一、若さは力なり 一、勇怯の差は小なり、されど責任観念の差は大なり 一、知諜の差は小なり、されど実行力の差は大なり 一、己に厳、人に寛、身を以て衆引を率ゆべし 一、徳義は戦力なり」この二番目の言葉こそ「責任」という言葉の重さを感じさせるものは少ない。そして、この精神はまず、2.26事件の際の阿南の訓話として表れている。

阿南は青年将校たちの思いが純粋なものであることも「勇」をもって実践したことも、決起を思い詰めた背後に農村の疲弊や格差の拡大、社会矛盾があることもよく理解していた。しかし、これは明らかにクーデターという不法なものであり、軍としての責任を逸脱した行為である。阿南は明確に「農村の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と論じた。

「勇」を誇り「正義」の側にいると確信すれば法を破ってもいいという発想を、阿南は理論以前に性格的に受け入れられなかったのではないだろうか。阿南にとって軍人の「責任」とは、そんな軽いものではなかった。阿南は統帥権という理念を最も厳しく認識し、もしも軍人が政治にかかわるのならば、その際は軍人たることを捨てなければならないと信じた。そして青年将校たちが、自らの政治的意思のために逆らうことのできない兵士たちを動員したことも許せなかったのだろう。これほどの厳しい「シビリアン・コントロール」の精神はない。

そして、この先進は敗戦に至る最も困難な時期にも貫かれていた。原爆投下からポツダム宣言受諾をめぐる最終段階で、阿南が陸軍大臣としてどのような心境にあったかは、いまだに諸説がある。しかし、阿南自身は何一つ書き残さなかった以上、それは彼の生涯を貫いた「責任」の精神で判断するのが最も妥当だろう。

陸軍大臣として、陸軍多数派の意志である本土決戦、少なくとも連合軍に一撃を与えたのちに、少しでも国体護持が保障される方向で融和を結ぶという意見を、内閣で堂々と説くのがまず責務である。同時に、軍人としての責任として、本土決戦にて勝利できるなどということを軽々しく言うことは絶対にできない。(阿南は特攻隊を出せば勝てるとか、神国日本は大和魂で守り切れるなどといった発言は、少なくとも公的な場では絶対に口にしなかった)そしてご聖断が下り、内閣として方針が決定した段階で、陸軍大臣のなすべきことは、その決定を一糸乱れず実行することであり、そのためにはすべての手段(自決を含む)を取る覚悟が阿南にはあった。阿南の敗戦時の様々な言動と、14日夜半の自決に至る言動は、私は以上のように素直に解釈すればよいと思う。

鈴木貫太郎首相に阿南が最後に述べた「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。」という言葉が阿南の真意であることを疑わなければならない要素は今のところ存在しない。

阿南の最後が感動的なのは、彼が何一つ語ることもなく、単に自らの肉体的生命だけではなく、死後の名誉や弁明などによって、死後の「精神的生命」を守る意志すら、おのれの責任のためには捨て去ったことである。「責任」とは「一死大罪を謝す」と同時に、その死を通じて「神州不滅を信ず」ることと一体であった。その信念に殉じた阿南にとって、まさに、言い残すべきことはかけらもなかったのである。

 敗戦当時、陸軍の一部でクーデターを行ってでもポツダム受諾を阻止しようという勢力があり、実際にも宮中事件として小規模ではあるが決起が起きている。当時日本では、1943年に降伏したイタリアの例が「パドリオの裏切り」として広く知られ、このポツダム宣言受諾を許しがたく思う勢力は確かに存在していた。

ムッソリーニ政権は敗戦に次ぐ敗戦で求心力を失い、ムッソリーニ自身も精神的に追い詰められて判断力や指導力に乱れを生じていた。しかし、この時点で連合軍に対する講和を秘密裏に進めていたのは、かねてからファシズム政権に批判的だったイタリア国王とその周辺である。彼らは別に民主主義者だったのではなく、ファシズムの中にあるある種の社会革命の思想や伝統的価値観への反逆に対して、旧貴族や既得権益の立場から反発していたに過ぎない。戦局が不利で国民の厭戦気分が高まったからと言って、自国の政府を無視して和平交渉を進め、最後には、ムッソリーニを事実上逮捕拘束してパドリオ元帥の新政権を建てるというのは、超法規的なクーデター以外の何物でもなく、それに国王が参加していたことは、国王自身が一定の政治勢力に身をゆだね政治的中立の立場を投げ捨てたことに他ならない。

そして、この決定に反対するイタリア国民や軍人が一定程度存在したからこそ、ヒトラーがムッソリーニを「救出」し、少なくとも理念上はもっとも純粋なファシズム政権を北イタリアに「サロ共和国」として建国したのち、1945年ムッソリーニがパルチザンにより処刑されるまで内戦が続いたのである。この国民間の分裂により、イタリアは戦後王制が崩壊した。

 これに比して、わが日本では、ポツダム宣言受諾に対しての賛否は別として、昭和天皇への忠誠による政府の一体感は最後まで維持された。陛下御自身も、最終段階では聖断を下されたものの、戦争継続論、何よりも現場で闘い続けていた兵士たちに思いを寄せられておられた。それは、8月15日の詔勅にも明示されている。

「然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス」「帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク」このように英霊と前線の兵士たちの名誉を国として、そして皇室として認めたのちに、ポツダム宣言受諾を、あくまで国民の統一の上でなし得たのは、まさに日本の国体の精華というべきものであろう。

 昭和24年6月10日、昭和天皇陛下は九州巡行の際、大分の宿舎にて、阿南の未亡人綾子を招かれてお言葉を賜った。「お変わりありませんか。苦しいでしょうね。苦しいでしょうが、しっかりやってくださいね。」当時、陸軍の関係者は敗戦の責任ある軍国主義者たちとみなす言動が、昨日までは米英撃滅を叫んでいた同じジャーナリズムや「知識人」から発せられていた時代である。綾子がどれだけこの言葉に深い感銘を受けたかは計り知れない。そして、これは敗戦直前の阿南陸相に対する、陛下の御心でもあられたかと思う。(終)
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