阿南陸相宅を訪れた朝鮮人 「松山武雄」とは誰だったのか 下川正晴氏の取材が明らかにした

戦後70周年の年、2015年8月22日、大分県竹田市の広瀬神社に、大日本帝国最後の陸軍大臣として8月14日自決した阿南惟親の胸像が建てられました。「一死 大罪を謝し奉る 神州不滅を信じつつ」という言葉を残した阿南陸相については、これまでもいくつかの評伝が出ていますので詳しくは述べませんが、この胸像の除幕式を取材し、その後雑誌正論に掲載されたのが、尊敬するジャーナリスト下川正晴氏の記事「終戦時の陸相 阿南惟親」です。この内容は大変興味深いものなので、少し紹介させていただきます。

下川氏はこの論考で、これまでの阿南惟親伝には見られなかった新しい指摘を二点していますが、一つは、阿南陸相の婦人、綾子氏(1971年仏門に入り、1983年死去)が残した短歌をいくつか紹介したことでしょう。綾子氏の詠んだ短歌は家族の私家版として印刷されただけで、今後も公開の予定はないようですが、ご家族の意志は尊重しなければならないにせよ、できれば下川氏のような方が編集し時代背景と共に世に出していただきたいと思います。

敗戦直後、夫の自決の知らせを受けて詠んだ歌です。

教えこし 言葉のままに もののふの 道をふみつつ 君は散りぬる

また、次の歌を、下川氏は阿南惟親の辞世「大君の 深き恵みに 浴みし身は 言ひ遺すべき 片言もなし」への「返歌」として受け取っています。

君を思ひ 国憂いつつ 皇軍(みいくさ)に ささげし夫が いまはにぞ哭く

阿南惟親の次男、惟晟は中国湖南省で戦死しています。「風と共に去りぬ」「戦争と平和」を熱心に読みふける青年だったと下川氏は記していますが、これはいずれも戦争をテーマとした物語ですね。彼はこれらの作品に何を読み取っていたのでしょうか。そして、次男の死は阿南夫妻にとってかなりの衝撃だったようですが、夫人はこのような歌を残しています。

夢か否 夢にはあらず かなし子が 湖南の華と 散りしおとずれ

そして阿南陸相は自決の前、酒を酌み交わしながら「私も惟晟のもとへ行く」と言い、戦死した次男の写真を、自決のために脱いだ上着の中に入れ「終わったら、私の上にかけてくれ」と、同席していた竹下中佐に言い残しています。

そして、これは私も気にかかっていたことなのですが、角田房子氏の阿南惟親伝には、まさに敗戦前夜、阿南陸相自決の日「松山という名の朝鮮人」が阿南邸を訪ねてきたという記述があります。これは下川氏のこの記事が明らかにしたのですが、この人は「松山武雄」、後に韓国初代合同参謀会議議長(陸軍大将)となる李亨根でした。彼は惟晟の陸軍士官学校時代の同級生で、戦友が湖南省で戦死した状況を語るためにこの日阿南邸を訪れたのでした。

「『一人だけ生き残って面目ありません。』と申し上げると、さすがの母堂もハラッと落涙され、『どうか惟晟の分まで頑張ってください」とおっしゃった。『阿南が連日連夜の激務で、近ごろは帰宅いたしません。あす私と一緒に陸軍省にまいりましたら、どんなに喜ぶことでしょう。今夜は私どもとごゆっくり。』と勧められた。私もつい御厚意に甘えて、実家に帰った気持ちで、その晩はお世話になることにした。』(陸士同期生会報15号より)そしてこの夜、阿南陸相は自刃したのでした。一家と、当時は松山という名前だった「日本軍人」は、その知らせを深夜受けることになります。

戦後も、李亨根と阿南家の間には、温かい交流が続き、綾子氏が亡くなった時には長文の弔辞が李から届いたことを下川氏は伝えています。

このようなエピソードを日韓両国の学校が、生徒たちにきちんと教えることこそ、私は真の相互理解にも、また両国がそれぞれの立場で生き、国を守った人々の心を尊重する教育だと思います。

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