「この世界の片隅に」の感想、やはり今書いておきます

朝日新聞に、映画「この世界の片隅に」を観た後はその思いを語りたくなる、という趣旨の広告記事が載っていたそうですが、私は二回観て、原作を読み直して、それでもこの映画に対してどう語っていいのかわからない状態です。ただ、今思ったことはやはり書き留めておいたほうがいいように思うので、この名作に対し、正直に思った複雑な印象を書いておきます

まず最初にやられたのは、これが原作を読んであと映画館に行くときにも最も期待していたのですが、「白うさぎが跳ねているような海」をすずが描くシーン。ここは原作の絵も(たぶん鉛筆画ですよね)あまりにも見事で、これをアニメーションにしたらどうなるのだろうかとずっと気になっていた。それが大画面で見れたとき、ああ、この映画は襟を正してみなければならないのだ、とつくづく思いました。「人買い」のシーンとか、すずが海苔を包んだ荷物を壁で支えながらしょうシーンとか、もちろんそれは見事ですよ。でもそのあたりまでは「素晴らしい」と感心するレベルだった。あの、海の白い波が白うさぎのように跳ねた瞬間、ああ、この映画は襟を正してこれを見るべし、と思ったわけで。原作上巻48ページの絵も素晴らしいんだけど、アニメもまたすごかった。

この映画「当たり前の日常」の深さ、大切さ、というテーマで語られているような気もするのですが、私の印象は全く違って、これはちょっと大げさな言い方かもしれないけど、当たり前の日常を、人間は想像力によってはるかに美しく聖なるものにすることができる、それはどんな悲惨な時代においても、もしくは強いられた死の場面においてもできるのだ、という、ものすごく強いメッセージを感じました。それこそ、すずは夫となる周作と、少女の時街にノリを売りに行った時に出会っていてるのですが、それは具体的にではなく、すずがそれを想像力の中で面白いメルヘンにした形でしか描かれないわけですよね。子供のころ、ちょっとであった異性に何となく忘れがたい思いを持つ、というのは誰でもあると思うけど、それをすずは想像力と絵画を通じて「文学」として昇華させている。「この世界の片隅」で描かれるのは、単なる日常ではなく、その一歩先にあるもの。そしてラストで、ふたたびすずと夫の前にメルヘンの世界がよみがえる時の幸福感は、後述しますが一時は「死」の世界に踏み込みそうになったすずが、ふたたび生の世界の豊かさに復帰したからではないかと思えます。

そしてもう一つ、この映画で、あえて原作には、すずの夫が思いを寄せていた娼婦の「りん」のエピソードを大幅に減らし、また、私が個人的には最も印象深いキャラクターである「テル」をカットしたことの意味、これは今もいろいろ考えさせられています。単に上映時間の問題だけではないような。もしそれならば、他にカットしてもいいシーンはいくつかあった(隣組のシーンとかね)。実際、「りん」と夫との関係を描かなかったことで、結婚式の日、ほとんどしゃべらず料理にも手を付けなかった夫の想いは、少なくともこの映画を観る限りはわからないわけですから。

しかし、私がそれが不満かというとそうではなく、むしろ映画では描かなかったことによる逆の効果も生まれたような気がするんですね。この原作で「りん」は最も生き生きしたキャラクターの一人で(作家もかなりほれ込んで書いているような気がする。原作本中巻の42ページのカットの美しさ、131ページの色っぽさ)作品的にはできるだけ切りたくない存在なんだけど、あえて切ったことで、映画としての完成度はかえって上がったような。夫の過去をすずも知らない、すずのは入れない世界が夫にはあり、其処は最後まで分からないというのが、ある意味。静かな緊張感をこの夫婦の関係与えているようにも思います。それが空襲の最中、広島に帰る、というすずの叫びに何か原作とはまた違う色合いを加えているようにも感じたんですね。

また、この作品で感じたのは、現実に根を下ろしてしっかりと生きているように見えるすずが、実はしばしば「芸術家」として、この現実を全く別の高い場所から見る瞬間。里帰りした後、これを最後と思って広島の街を描くシーン(これは原爆投下を知る観客にはまた別の意味を持って迫ってくる)、そして、空襲のシーンを、「ここに絵の具があったなら」と、一瞬とはいえ空戦や爆弾を美しい絵画のように見てしまうシーン。この二つのシーンもまた、襟を正すというかなんというか、この映画は一瞬も気を抜いてはいかん、と思わせました。

そして、この映画で、特に後半部にしばしば感じたのは、「死」の世界と「生」の世界を、すずの精神がしばしば往来しているようなイメージ。これは原作でも強く感じるのですが、すずが右手と、そして義姉の子供、晴海を共に爆弾で失ったのちには、特にそのイメージは強く出ます。すずだけでも生きていてよかった、という言葉が彼女には偽善にしか聞こえないのは、失われた右手を通じて、すずが死の世界に深くつながっているからで、空襲前に飛んできて、すずが必死で逃がそうとする白いサギの姿も、どこか、死と生の世界をつなぐ神話的な鳥のイメージとも重なる。そして、敗戦の日、すずがなぜあれだけ怒り悲しまなければならなかったかは、このとき最も、すずが「死」の側から叫んでいるからのように思えました。しかしそのあと、ふと見上げた一輪の花によってすずは「生」の世界に引き戻されるのですが、このシーンだけは、やはりアニメでしかできない表現で、映画館で一番感動したシーンでしたね。とにかく、これからは空襲がなくなった、といったセリフであの日を迎えなかったのは、原作者の覚悟というべきもの。だからこそ逆に、戦後、すずが次第に「生」の側に戻ってくる姿、たとえもう右手で絵を描けなくても、想像力がすべての空白を補っていく精神が美しく映る。

そして、「火垂るの墓」的な壮絶な映像を、ラスト数分のエピソードで見事に昇華した形で、しかもリアリズムから逃げずに描いたのも、アニメーション監督としての覚悟。もちろん、晴海の再生と、すずがついに「母親」となるというポジテイヴなメッセージでもあるんでしょうけど、私は逆に、この映画全体が、ラストで空襲で死んだ母親の死ぬ間際に見た夢だったような、そんな衝撃すら感じさせるほどの迫力ある映像でした。

原作者だって監督だってあの時代を体験したわけではない。ち密に資料は調べただろうけれど、基本にあるものは想像力と、体験ではなく普遍に立とうとする姿。だからこそ、この原作と映画は傑作になりえた。未見の方は是非どうぞ、個人的には、原作は観た後でも観る前でもいいから絶対読むことをお勧めします。

「君の名は」も「この世界の片隅に」も、ある意味、生と死の世界の交錯、往来というテーマがどこか共通しているような気がする。それは単に偶然ではなく、やはり何か時代的なものを感じるのですが、そのことは今はあまり論じないほうがいい気がします。とにかく、二作とも素晴らしい。

悲しくてやりきれない、を、一応オリジナルバージョンで


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