書評 内村剛介ロングインタビュー 「ロシア人のいるところがすなわちロシア」

日ロ首脳会談が終わりました。このブログでは論評は致しませんが、以前「諸君!」に書いた書評を掲載します。「ロシア人がいるところがすなわちロシア」という論理は、今のプーチン政権も無意識のうちに抱いている考えかもしれないと思いました。
この書評の最期に触れた「プラトノイ」については「日は鉄格子に昇る」(ミハイル・ジョーミン著 講談社)という、まさに彼らの実態を描いたすごい小説があります。そこで紹介されていたプラトノイの人生訓は「人生は子どもの下着だ、短くて汚ねえ」というものでした。

書評 内村剛介ロングインタビュー  恵雅堂出版

「スターリンの天才たるところは彼が、『社会主義の下では労働者は働かないものなのだ』という幻想なき真理を(中略)発見し、『ならば、それには労働強制で応じるほかない』と決意し、かつ果敢にそれを実行に移したことにある。」(「我が身を吹き抜けたロシア革命」五月書房)このようなラデイカルなソ連論を語れる唯一の日本人が内村剛介である。本書は内村がその人生と、ソ連=ロシアの本質について語った思想的自叙伝というべき労作だ。

 内村が学んだハルピン学院は、言葉の本質的な意味でリベラルな学校だった。リベラルとは、社会に異議申し立てをするときに、何ものも頼らず「自分一個の人間存在として歴史と向かい合うほかはない」ことを選択する精神のことである。ここからは、「五族共和」などというスローガンを越えた、真の意味で一人一人の人間が国家も民族も超えて交流する精神が生まれる。本書五十四頁に描かれた中国人学生と内村との対話は、その精神の頂点を示しているといってよい。そして、このような精神を本質的に滅ぼそうとしたのが、ソ連に代表される共産主義収容所体制だった。

 内村はシベリア抑留という言葉を実は否定し「ソ連国家捕虜」と呼ぶべきだとする。ソ連時代以前から、ロシアにとっては労働力として捕虜を取り込むのは全く当たり前の論理なのだ。内村も北朝鮮で居留民保護やソ連軍の通訳の仕事をしていた際逮捕され、一度は釈放されるが、同僚の一人が急病(チフス)にかかり、彼の治療のために医療施設のある収容所に戻った時に、かって関東軍に勤務(通訳、翻訳)をしていたことにより再逮捕され、一九四六年、ラーゲリへと送られてしまう。

 しかし、内村は囚人となっても「一個の人間存在として」抵抗した。日本帰国は10年は出来ないと覚悟し、同時に「先ず、僕に対して勝手に戦犯の名を冠したソ連に対しこれを徹底的に裁く」そして「勝者の論理でもってあの戦争を『太平洋戦争』と勝手に命名し、理不尽な東京裁判をやってのけたアメリカをも許さない」(百五頁)という思想的基盤を確立する。内村の精神は、戦後民主主義の限界を既に超えていたのだ。

そして、内村は、ラーゲリというソ連の暗部を通じて、共産主義のみならず、ロシアそのものの本質を我が身に体験していく。次の言葉は、ロリア語表現への豊富な知識から導かれた、内村ならではのロシア精神論である。

「彼ら(ロシア)の精神の奥には何があるか(中略)僕はそれはアモルフだと思う。つまり『型なし』なのであって(中略)彼らはおのれの内部に途方もない『型なし』をかかえているがゆえに、他方ではこれを厳しく畏怖して、逆に型を求めて動く(中略)そして、その有様が極端であればあるほど分かりやすいので、極端でないものは軽蔑し馬鹿にする。」(二百四十六頁)ロシアは精神の根本に空虚を抱えているからこそ、思想や行動は過激に向うというこの指摘は、トルストイ、ドストエフスキー、ソルジェニーツイン等の強烈な思想遍歴や宗教心を思わせると同時に、スターリンに象徴される独裁体制の本質をも貫く。

さらに内村は、ロシアにおける「所有」の概念に触れ、農村共同体においても実態としての農地所有はなく、所有概念があいまいな事はかならず法意識への軽視に繋がり、同時に「ロシア人のいるところがすなわちロシア」という「聖なるロシア」(二百四十九頁)概念を導き、ロシアの拡大や侵略を肯定しかねないと警告する。この視点は、民衆の無私の精神や所有欲のなさ、共同体の相互扶助を賞賛してきたロシアの思想家達が、一方でロシア帝国の膨張・侵略にも肯定的だった事を思い起こさせずにはおかない。ロシアにおいては、美点は常に巨大な矛盾と隣りあわせなのだ。

 さらに興味深いのは、第八章で語られる「プラトノイ」、いかなる権力に対しても屈しないロシアの無頼漢たちの姿である。彼らは決して集団をなさない。集団を作り「○○一家」となった途端に、その組織に縛られるからだ。同時に家族を作らず、労働を軽蔑する。「『働く』ということは権力におべっかを使っていることだから、そんなやつは生きている資格はない」(二百七十九頁)そして、彼らはラーゲリでも他の囚人から掠め取り、社会でも一般人から脅し取り、盗んで生きて行く。多くは三十代でその激しく短い人生を終える。そして、プラトノイから堕落し、権力と通謀して手先となった無頼漢たちは「スーカ(雌犬)」と呼ばれ、彼らはラーゲリでも社会でも正等派プラトノイと殺しあう『戦争状態』にあった。そしてソ連権力下、プラトノイは滅ぼされ、生き残った「スーカ」の末流が、今やロシアン・マフィアとなり、国有財産を買い漁って新興財閥として君臨していると、ラーゲリでその両者と出会った内村は指摘する。プラトノイはロシアの伝説的な「権力のない世界を求めて走る」「自分の自由を守るための英雄的」(二百七十四頁)存在であり、それを滅ぼし権力と結託して財産を掠め取った「スーカ」は、新興財閥としての富と引き換えに、「ロシアそのものを台無しにした」(二百九十三頁)のだ。

 本書は冒頭に触れた「わが身を吹き抜けたロシア革命」と併読する事を是非お薦めする。二十世紀は収容所と戦争の時代だった。二十世紀の闇はラーゲリにある。本書は、ラーゲリとは何か、ラーゲリを生み出したソ連=ロシアとは何かを考える上での必読書である。

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