三笠宮殿下とモンゴル

楊海英先生が、ニューズウイーク日本版の11月15日号に、三笠宮殿下について寄稿しています。簡単に要約してお伝えします。

三笠宮殿下は1938年春、満州国から東京の陸軍士官学校に留学したモンゴル人青年将校が、千葉県習志野の野営訓練をしているのを謁見されました見事な情馬術を披露したモンゴル青年に、殿下は「君はモンゴル人か。チンギス・ハンの子孫だから、当然、馬術もうまいのだな」と声をかけられました。それ以降、殿下とモンゴル人たちの交流は続きました。

ドグルジャブというモンゴル青年も、殿下がお目をかけられた人物の一人でした。彼が39年に卒業して満州に戻る時、三笠宮殿下は送別会を開かれ、富士山をあしらった刺繍をプレゼントしておっしゃいました。「満州国では跋扈している日本人もいるかもしれないが、あんな奴らは日本の代表ではない」
1943年、殿下が満州国を訪問され、モンゴル人たちが教育を受けている興安軍学校を視察されましたが、その時お迎えに上がったのは、習志野で殿下に励まされたモンゴル人たちでした。

1945年の日本敗戦以後、南モンゴルは中国の内モンゴル自治区となり、三笠宮殿下に可愛がられたモンゴル人たちは「日本のスパイ」として拷問、処刑、強制労働にさらされました。先述したドグルジャブも、文化大革命時、筆舌に尽くしがたい暴虐に耐えねばなりませんでしたが、彼は生き延び、1984年、陸軍士官学校同窓生の招きで日本を再訪。三笠宮殿下と41年ぶりの再会を果たしました。

以上が楊先生の文章の大意です。このような歴史があったこと、そして、「チベットに舞う日本刀」(文藝春秋)で楊先生が明らかにしたように、日本軍が鍛え上げたモンゴル騎兵部隊が、中国のチベット侵略の先兵として利用されたこと、しかし、彼らは中国軍のような捕虜や民間人の虐殺は決して行わず、むしろ彼らを保護しようとしたこと、さらに、文化大革命時、「内モンゴル自治区」にて、中国政府の発表でも3万人、モンゴル人研究者の中には30万もの犠牲が出たという説があること、これらを決して私たち日本人はモンゴル人と共に忘れてはならないはずです。

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