フランス革命メモ『ヴァンデ戦争』

近代の扉を開いたのはフランス革命だった。そして、アジアに近代の曙をもたらしたのは我が国の明治維新である。この歴史的意義を評価するという当然のことがないがしろにされ、戦後日本の歴史解釈に様々な混迷をもたらたことは疑いを入れない。 藤岡信勝氏を中心とした、「自由主義史観」は、当初は明治維新と近代国家設立の努力に対する正当な評価を求めることが目的だった。彼らが、司馬遼太郎を国民作家として高く評価したのは、司馬の歴史小説が、幕末・明治の志士たちを、前近代的な束縛から解き放たれ、新たな近代的な自由、理性、平等、市場経済などの価値観を受け入れ、そして近代国家の政治、外交のシステムに目覚めた魅力的な若き日本「国民」として描き出したからに他ならない。

 幕末を描いた司馬氏の傑作「龍馬がゆく」は、旧来の身分秩序から自由で、藩という組織からも脱し、武士道精神と近代的自由の感覚を結合した龍馬像は、近代の曙の理想像に最もふさわしい存在だった。明治の若きナショナリズムと、近代国家建設への道が、そのまま人間精神を自由に向けて羽ばたかせた時代の群像は、今も私たちの感動を呼ぶものがある。

 しかし、この「近代の光」は、同時に、フランスにおいても日本においても、自らの意に沿わぬ者を、無慈悲に焼き尽くす一面をもっていた。明治という時代を見つめるときには、近代国家の確立に伴う残酷さに目を向け、近代の価値と共にその限界をも認識する複合的な視点をもつことが、現在最も必要である。この一例は、フランスにおいて一七九二年から九六年まで続いた「ヴァンデ戦争」において典型的に現れている。

 フランス革命は「自由、平等、博愛という普遍的価値を政治にもたらした近代の曙」という一面と共に、「革命独裁」という概念をも生み出した。革命政府、特にロベスピエールのジャコバン独裁は、「自由」の名による「独裁」と、「自由の敵」の虐殺という、それ以後あらゆる「革命政権」が行う惨劇の人類史における幕を開く。この意味でロベスピエールはスターリンの生みの親の一人でもある。

 しかし、反対派のギロチンによる大量公開処刑は、「革命運動の内ゲバ」「旧体制への復讐裁判」であって、実は革命政権の残虐さの本質ではない。革命政府が最も残酷な自国民への虐殺を行ったのは、ヴァンデ地方の民衆決起に対する弾圧過程である。 一七九二年に、フランス南西部のヴァンデ地方で始まった「ヴァンデ戦争」は、従来は革命の意味を理解できない遅れた農民が、僧侶や反動貴族の扇動により反乱を起こしたものとみなされて来た。しかし、近年の研究により、ヴァンデ地方はむしろ工業・商業面でも先進的な地方であったこと、実際の戦闘において指揮を執った貴族はむしろ民衆に押された人がほとんどで、実体は民衆の革命政府に反対する自発的な蜂起であったことが明らかになっている。

 何よりも重要な事は、ヴァンデの民衆は、革命のきっかけとなった三部会の招集に際し、様々な社会改革案を陳情し、大きな期待をもってフランス革命を迎えたが、やがて革命政府がかっての王権・貴族体制よりも遥かに抑圧的なものに変貌したことに反発して立ち上がったという点である。

 革命政府の推し進める独裁的中央集権、カトリック教会の国家管理、そして徴兵制度と戦争、これらへの抗議がヴァンデ決起の原因であり、より根本にあったのは、古来より築き上げて来た民衆の共同体に根差した地方自治の確立と、その共同体を決して破壊することのない、地域に根差した穏やかな政治・経済改革を求めるヴァンデ民衆と、上からの共同体破壊により「自由」を制度として押し付けようとする革命政府との対立であった。後にヴァンデ軍の指揮を執った一部僧侶の意向により、その性格はしだいに絶対王政復活の方向に歪められて行くが、それは反乱軍の決して本質ではない。ヴァンデの戦いは、革命の名における独裁と地域共同体の破壊、そして精神の統制に抗する決起だったのである。

 ヴァンデ軍はよく戦い、一時は連戦連勝の勢いでパリをも脅かすが、武器弾薬の不足と、指導者間の反目、最終目的をヴァンデ防衛におかず、イギリス軍との連合による革命政府打倒と王政復活においてしまったという根本的な戦略の誤りから、次第に退潮となって行く。その後には、政府軍によるむごたらしい民衆の虐殺があった。「地獄部隊」と呼ばれた政府軍の特殊部隊は、村を焼き払い、女性、子供まで銃殺、時には川に投げ込んで溺死させるという残酷な刑を行った。

 しかし、それに対し、反乱軍の報復や捕虜虐待の例は遥かに少ない。軍の指揮においてはスタンド・プレーが多く、戦略的にも問題があった貴族達も、捕虜の虐待は許さなかった。

 最も美しいエピソードがある。最大の決戦で敗れ、退却中のヴァンデ軍は、約五千人の捕虜を抱えていた。サン・フロランという町に敗軍は到着したが、食糧も不足し、捕虜をこれ以上連れて行くことは不可能。

 政府軍の各地での残虐行為に怒る民衆は銃殺を求める。だが、鉄砲隊が捕虜の前に並んだ時、最も尊敬されていた貴族指揮官であり、瀕死の重傷を負っていたボンシャンは、最後の力を振り絞って命令を下す。

 カトリック精神を守るために決起した軍が残虐行為をすることは許されない。「捕虜たちに特赦を!」全員が釈放され、その中にはフランス革命を賛美する画家、ダヴィドの父親もいた。ボンシャンはこの二日後に世を去る。ダヴィドは立場を超えて、ボンシャンの大理石の像を造った。その像には、彼の最後の命令と、サン・フロランの名前が刻まれている。ヴァンデ軍は敗れたが、この「サン・フロランの勝利」は、大きな精神的勝利として人々の心に残った。 

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