「君の名は」を観てきました 神道と現代の幸福な出会いというべき作品でした

新海誠監督のアニメーション「君の名は」観てきました。平日夕方でしたが高校生がほとんどで、いつもはゆっくり観れる映画館もほぼ満席。やはりこの監督への期待はすごい。それも、客席の雰囲気が、いわゆる『アニメファン』ではない。ごく普通の、特にアニメ好きでもない高校生も来ている感じ。これは「シン・ゴジラ」の観客が、いかにも一癖ありそうな人たちばっかりだったのとは好対照をなす。

そして「シン・ゴジラ」が、観た後いろいろ語りたくなる作品であるのと違って、この「君の名は」に限らないんだけど、新海監督の作品は、観た後あんまり語りたくないというか、それぞれが静かに思いにとどめたくなるような作品。こういう作品とか「サマーウオーズ」とか観ると、アニメという世界が、単なる技術的な進歩だけではなく(それがどんなにすごいかはまあ私が言わなくても観た人にはわかるから)最近の文学でも音楽でもなかなか難しくなっている「成熟」を果たしていること、そして、最もいい意味での「児童文学」になり得ていることを実感します。

児童文学とは子供向け、というだけの意味ではなく、まあこれは私の勝手な決めつけですが、人生とか人間、そして世界に対して、その醜さや残酷さを描いてもいいんだけど、最終的には「イエス」を言う姿勢を持つ文学のこと。これは言うことは簡単だけど実際は難しい。私は今の世の中、安易なニヒリズムを語ることと、そしてこれまた安易な希望を語ることほど簡単で、同時に表現者としては自殺することにつながることはないと思っています。徹底した絶望を描いた作品というのはそれはそれですごいんだけど、やはり私はそういうものはいまいちなじめないというか好きではなくて、しかも、アニメーションとか児童文学とかいうジャンルではそれはやはり禁じ手。ハッピーエンドにしろと言っているのではなくて、たとえ死を描いても破滅を描いても、そこには何か人間の美しさみたいなものを内在していないと成り立たないと思う。

宮崎駿がやはり偉大だったのは、あの人は個人の思想としては、たぶん左翼思想の最も原点のようなものを抱き続け、しかもそれが現実では裏切られてくことに絶望していた人だったと思うんだけど、作品の中では、少なくとも成功作においては常に希望を描き出せていたこと。宮崎に限らず、このブログでも触れた庵野氏も、表現者というのは自分の内面にものすごい欠落や絶望があって、そこから何かを生み出していく人が多いと思うんですけど、新海誠氏のアニメを見ると、この人はそういうタイプとは全く違うように思う。いや、もちろん、この「君の名は」の中にも、ちょっとぞっとするほど恐ろしい「死」のイメージが描かれてて、そこには新海氏の闇をまざまざと感じましたけど、どうもそれだけではなく、基本的に「希望」を作り出す能力を、この監督は豊かに持っていて、それを自然に表現できる力量があるような気がする。新海氏の作品、ある意味では決してハッピーエンドとは言えない。短編連作「秒速5センチメートル」とか、人間と人間が出会い、理解しあうことがいかに難しいかを描いているとすら言える。しかし、観終わった後の印象は決してむなしいものではないのは、たとえ理解し得なくても、それを求めることの大切さがきちんと示されているからではないかと。そして今回の「君の名は」は、真正面から希望と再生の物語に挑んで見せ、かつエンターテイメントとしても完ぺきな作品を作り上げた。

未見の方も多いでしょうし、ここではあれこれ書きたくないのでストレートに思ったことだけ書いておきますが、「アニメーションはアニミズム(自然崇拝)、絵の中に生命が宿るという意味だ」みたいな言葉あるでしょう。私も使ったことあるけど、まあ、本当にそれが語源かどうかは実は確信はない。ただ、この「君の名は」観た後は、これぞジャパニメーション、これぞ日本のアニミズムが表現された傑作と思いました。新海氏の作品のどれにもある、ある種の希望と人間への確信みたいなものは、やっとこの世代の表現者が、余計な政治イデオロギー抜きで、日本の最も古い伝統と素直に触れ合うことができるようになったことにも根ざしているような気がする。希望は伝統や歴史に根差したとき、最も強いもの、個人を超えたものとなるから。

男女の魂が偶然入れ替わる、というのは児童文学ではよくあるパターンで、それ自体は特に魅力的なものではない。この作品が見事なのは、その類型の上に、古代神道の構図を見事に絡ませていったこと(もちろん、声優、とくに神木隆之介が素晴らしい。女性の魂が乗り移って、初めてトイレに行くときの声は絶品)。この作品では神道、それも、各村落に根差していて、しかも近代によってほとんど忘れられて形骸しか残っていない神道の世界が、現代社会で見事に復活していくさまが描かれています。あまりにも美しい彗星の襲来は、美しいだけではなく「荒ぶる神」として破壊をももたらす。そしてそれを救うもの、再生させるものは、時間を超えた男女の神話的な出会い。しかも、最初には女性から名乗ったのでうまく出会えず、最後のラストでは男性から名乗るという、古事記のパターンをそのまま取り入れている。廃墟と化した村での、男女の時を超えた出会いは、死のイメージの恐ろしさと再生の希望とを見事に一致させ、しかもセリフには一切そのような神秘性を持たせなかったのが逆に効果を上げている。

かつ登場人物として結構印象に残るのは、ヒロイン三葉の学友の「テッシー」とさやかの二人で、彼らには神秘体験も何も起きないのだけど、実によく現実を生きている。実際、この二人の奮闘で最悪の事態を避けられたのだし、その勇気と実行力は只者ではない。最後に二人は結婚するらしいのだが、これはいい夫婦になるだろうということは確信できる。神話の世界、非日常の世界に触れることのできる人は、この世界に多くのものをもたらすけれど、それを生かすのは、決してそういう世界を観ることはできないけれど、日常の外に何か豊かなものがあることを確信し、それによって自分たちの日常をよく生きている現実の庶民なのだ、ということがよくわかる。

実は新海監督の作品(ということも最初は知らなかった)で衝撃を受けたのはZ会のコマーシャルで、これがまた素晴らしい。大成建設のコマーシャルもももちろんですが、私は「広告は文化」などという80年代の言葉をあまり信用していないが、良き表現者を得れば確かにここまでできるということはよくわかる。

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4 Responses to “「君の名は」を観てきました 神道と現代の幸福な出会いというべき作品でした”

  1. 大石規雄 より:
    遅れて観ましたが、とても良い映画でした。
    いま、ウルウルしてます(笑)。
  2. miura より:
    私はあの映画を観て、日本はまだまだ大丈夫だと本気で思いました。
  3. kousuke より:
    「君の名は。」を3回ほど鑑賞しました。素晴らしい映画ですね。
    私も三浦先生と同じく神道を描いていることに注目いたしました。
    タイムスリップによる「歴史改変物」がヒットするか否かは、
    観客がタイムスリップを自然に感じるか、或いは不自然に感じるかが、分かれ目だと思います。
    「君の名は。」では、「神道」つまり「日本の神様」がタイムスリップのトリガーの役割を担っており、
    大多数の観客は「神様なんだから、タイムスリップぐらいできるのは、当たり前でしょ」と思っているため、
    タイムスリップによる「歴史改変」を自然に感じる事ができたのではないでしょうか。
    「千と千尋の神隠し」に登場する「ハク」も古事記に出てくる神様「饒速日命(ニギハヤヒノミコト」からとったものだと考えられております。そしてこの映画が映画興行成績第一位。
    そして「君の名は。」も神道を描いて大ヒットです。
    やはり日本人は「神様」が大好きなのだなと感じました。
  4. miura より:
    確かにそれは言えそうですね。あと、何よりも画像の力ですね、当たり前ではありますが。神道を描いたと言い切っていいかどうかは自信がなかったのですが、KOUSUKE様のように言っていただけると励まされます。これまでは「純文学」だった新海氏が、今回は一歩踏み込んで大きなエイターテイメントを描けたのも、神道をはじめとする日本の伝統を思い切って(無意識かもしれないけど)取り入れたからではないかと思います

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