これは保守運動の側も読むべき本です 「『反戦、脱原発リベラル』はなぜ敗北するのか」浅羽通明著 ちくま新書

「『反戦、脱原発リベラル』はなぜ敗北するのか」浅羽通明著 ちくま新書、先日読みました。すべての内容に共感したわけではありませんが、一読後強く思ったのは、これは保守運動の側の人間も絶対に読んだほうがいい本だということ。ここではリベラル派、特に脱原発運動やシールズが批判的な考察の対象となっていますが、私は途中から、これは私たち保守派、右派の運動の現状に対しても極めて的確な批判だと思いました。

ここでの浅羽氏の指摘は興味深いものがいくつもあるのですが、特に「敷居の低い、参加しゃすい運動」「組織な頼らぬ自由な個人の参加による運動」などの、耳障りの言い「運動」のあり方が実は現在の運動の根本的な弱点の裏返しなのだという指摘は実に興味深いものでした。そして、一つの結論として挙げられている次の視点は、なるほど、我が陣営も受け止めねばならないと実感しました。

「わが国では、状況が変化してどれほど圧力を被っても、信奉する思想を捨てず曲げず守り通す人が立派とされてきた。どれだけ結果を出したかよりも、どこまで信条を貫けたかが判断基準となる。(中略)だったら、思想と宗教は基本的に同じものです。それでいいのでしょうか。私は違うと考えています。」

「思想は、絶えず現実とぶつかってその正しさ、というよりも有効射程がどのくらいか、汎用性はどれほどあるかとを検証され続けるべきだ、そう考えています。そして、現実に生じた結果からのフィードバックによって、この思想は間違っているんじゃないかという疑いが生じたときは適時、軌道修正を加えられて、より現実を織り込んだ思想へ進化していく。」

「(運動がその目的を達成できなかったとき)必要なのは、『あーだめだ』となって『よし、もう一度』と再起動する前に敗因を分析して、敵と味方、彼我の力量の差を正確に測定し、そこから目を背けず、それでも勝てる手があるか、勝てなくても確実に一矢を報いる方法はあるか、まるでないのなら、どれくらいの長期計画を立てたなら、力量の差を縮めていけるのかなどなどを、クールに検証していく作業、これだけです」

これらの言葉は大衆迎合でも現実追認でもなく、少なくとも私自身がしばしば陥りがちな「政治運動として客観的にその運動目的を実現できたか否か」という分析から逃げて、「参加したことに意義があった」といった精神論に落ち込む傾向への批判として誠に的確なものです。そして、現在のデモにかけているのが、生活者、実務者の参加であり、またデモを効果たらしめる組織的労働者のストライキであるという指摘は、当たり前のようでなかなか口にできなかったこと。保守運動に何が欠けているか、保守運動がなぜ『戦後民主主義』に勝つことができていないのかを考えるうえでも重要な本でした。これは運動というものに興味を持つ人は読んでおいたほうがいいと思うし、この著者を乗り越えるくらいの運動が展開できない限り、状況は決して変えられないと思ったほうがいいかも。

ついでに余計なことを言っておきますが、最初にデモや政治活動に参加したとき、たぶん誰でもすごい高揚感を持つんですよ。共通の目的をもって行動に立ち上がった時こそ、人間は連帯を持ちうるんだ、という思いに浸るものです。私も20代、初めてあるデモに参加し、シュプレヒコールをしたときそう感じたから。しかし、その感動と連帯感そのものは、そのデモが右のものであれ左のものであれ、いや、極論を言えばナチスのものであれ文革であれ、おそらく運動の現場、特にその初期段階では共有されていたはずなんです。いや、これは他人ごとではない、たぶん私が30年代にドイツかロシアにいたら、ヒトラー万歳、スターリン万歳、絶対言っていたと思う、それも自分なりの信念で。

ですから本書にも指摘がありますが、デモや運動の中での感動や連帯感を、そのまま純粋なものとして評価するのは実は危険です。逆に、私は真に思想を鍛え、新しい運動や政治思想を作り出す人は、敗北の中じっとその現実をかみしめ、その原因を考え抜く人の中からしか出てこないと思う。今、左右ともに、そういう人間を一人でも多く必要としているのではないか、そのことだけは確信しています。

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