モンゴル民衆決起 書評「神なるオオカミ」

【北京=川越一】中国内モンゴル自治区で、炭鉱開発に反対していたモンゴル族遊牧民2人の事故死をきっかけに反政府抗議行動が拡大している。国際人権団体、アムネスティ・インターナショナルなどによると、中国当局は29日までに、同自治区の一部に戒厳令を敷いたもようだ。

 同団体が27日に発表した報告などによると、今月中旬、遊牧民1人が石炭を積んだトラックにはねられて死亡。4日後にも1人が車の衝突で死亡した。同自治区では、炭坑開発による大気や水質汚染の深刻化に遊牧民が反発。業者や政府に対応を求めていたことから、事故を装った殺害を疑う声が上がった。

 住民らは23日ごろから、死亡原因の究明やモンゴル族の人権尊重などを求めてデモを開始した。当局が24日に運転手らの拘束を発表した後も抗議行動は激しさを増し、25日にはシリンホト市で、モンゴル族の学生らを中心に数千人が政府庁舎を取り囲むなどする騒ぎが発生。27日には同市郊外で、遊牧民や学生らと治安部隊が衝突し、40人以上が拘束された。

 チベット族やウイグル族による抗議活動が多発する中、モンゴル族居住地での衝突は、中国当局にとっては新たな“火薬庫”となりかねない。遊牧民らの怒りには、石炭採掘など自治区の資源をあさる漢族への反発も見え隠れする。

 それだけに、7月1日に共産党創立90周年を控える中国当局は治安部隊の大量動員やインターネット規制に加え、戒厳令まで発して、少数民族による抗議行動の飛び火を押さえ込もうとしている。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/110529/chn11052917500001-n1.htm

内モンゴルで民衆が決起。チベット、ウイグルに続く様々な民族問題、人権問題が噴出してきました。

現時点ではまだ仔細は不明ですが、以前私が書いたモンゴル民族精神をオオカミに託して描いたある文学を紹介します。

書評 神なるオオカミ 姜戒著 講談社

 文化大革命、特に紅衛兵の暴力闘争と、「下放」という名目で中国の各地に追いやられた知識人青年達の運命は、中国現代史の錯誤や悲劇として認識されている。しかし、その影には「下放」がもたらした、知識人青年層や紅衛兵の、中国の奥地における真の意味での中国の伝統的民衆や少数民族文化との出会いがあったはずだ。本書「神なるオオカミ」は、内モンゴル自治区に下方された青年知識人、陳陣たちの物語を通じて、遊牧民族であるモンゴル人、そしてオオカミという自然そのものの象徴に出会いを通じて、自らの中華思想やマルクス主義を克服していく思想の旅路であり、また、彼らがタブーを犯してまでも身に着け受け継ごうとした遊牧精神が、近代化の中で崩壊して行く哀史でもある。

 しかし、本書は「失われゆく自然と環境破壊、滅び行く先住民族の悲哀」などという紋切り型の作品では全くない。この自然がどれほど過酷で残酷な弱肉強食の原理で貫かれているかを本書は余すことなく描き、感傷的な思い入れを許さない。冒頭第一章で描かれる、陳陣が道に迷ってオオカミの群に遭遇する場面の恐怖、そして羊に襲い掛かるオオカミの群に命がけで抵抗する遊牧民の女性ガスマの戦いぶりは、遊牧民の生活がまさに彼ら自身が語るような戦士の日々であることを明らかにしている。

そして、陳陣にモンゴル草原の知恵を伝えるピリグ爺さんの言葉は、今暖冷房の聴いた部屋でエコロジーを語る我々とは次元の違う思想を内在している。オオカミが大量に野生の黄羊を駆りだすことにショックを受け、罪もない生き物を無闇に殺すなんて、と語る陳陣に、爺さんは、それでは草はかわいそうではないのか、と怒る。「モンゴル高原では、草と草原が命の本ともいえる、大きな命なんだ。それ以外は小さな命に過ぎない。オオカミだって人間だって小さな命だ。」(八十三頁)オオカミも人間も、ともにこの草原を守るための存在であり、特にオオカミは草食動物の数を調節し草原を守る神なのだ。そして、オオカミが増えすぎることもまた草原が生きられなくなることを意味する。「オオカミが多すぎたら神じゃなくなって、化け物になってしまう。人間が化け物を殺すことはまちがいではない。もし、草原の牛や羊が化け物にぜんぶ殺されたら、人間は生きていけなくなって、草原も守れない。わしらモンゴル人も草原を守るために、天に遣わされてきたのだ。」(二百三頁)だからこそ、モンゴル人は死後、天葬という形でオオカミにその体を与える。

 陳陣はオオカミの獰猛さと勇敢さ、狩における戦術の巧みさに魅かれ、農耕民族である漢民族には今こそオオカミの精神、そしてオオカミと戦いながら鍛えられてきた遊牧民の精神が必要なのだと確信してゆく。伝統的に万里の長城の彼方の北方民族を敵対視し、それと戦ってきた岳飛のような人物を英雄と見なしてきた中華思想、そして近代化、工業化、伝統破壊を推し進めてきた中国共産主義からの脱却である。そして、陳陣の結論は、オオカミの子供を捕まえて飼う事によって、オオカミについてさらに深く学び、オオカミと友人となり、オオカミと遊牧文化を継承していくことだった。

 本書中盤から終章までは、オオカミの穴から掘り出してきた幼い「小狼」と名づけられた子オオカミの成長と、陳陣との交流が描かれる。しかしここでも、よくある動物物語のような人間と動物の愛情よりも、自然に生きるものを飼育することの罪深さ、自由を奪われたオオカミの苦しみが痛々しいまでに描かれる。ピリグ爺さんも、オオカミを飼う行為は天を汚すタブーであることをはっきりと示す。遊牧の文化を取り入れるという発想自体が、漢民族が他民族の文化を改造し吸収することではないかという本質的な問いが、オオカミを鎖でつなぎ、その歯を削る事によってしか飼う事ができない現実によって露にされているかのようだ。オオカミを飼う名目を、家畜の敵であるオオカミの研究と、シェパードとの交配によって強力な犬を繁殖させるためだ、と地区共産党幹部に説明する陳陣の姿に、その矛盾が最も鮮明に表れている。そして、草原文化を封建的なものと見なす共産党の政策から、オオカミの絶滅政策が取られ、他の草原の生き物も無秩序に狩られてゆく。

 そして、陳陣が愛情を注げば注ぐほど、逆に「小狼」の悲劇は深まって行く。ある夜オオカミの群から、人間に囚われの身となっている小狼に向けて呼びかけの遠吠えがこだまするが、生まれてすぐ人間に飼われた小狼は、この呼び声にきちんとした「オオカミ語」で答える事ができず、狼たちはそのまま立ち去って行く(第26章)。これは決して文学的脚色ではない。群の動物には意志伝達の手段がある程度は存在し、それは幼少時から群れの中で先達をまねる形でしか学習できないはずだ。飼われたオオカミは、生物としてはオオカミだが、文化と神話的世界の中で天に通じたオオカミではないのだ。

 モンゴル草原のオオカミの群れが、様々な近代的な銃やワナ、そしてオオカミより早く走れる自動車との戦いに敗れ、小狼も次第に飼育環境に傷つき衰えて行く過程は読むものの心を痛ませる。しかし、このような前近代社会に私達が戻ることは適わない以上、それをただ感傷的に受け止めるべきではない。人間に追い詰められたオオカミの王は、最期の戦いに挑むためか、再びオオカミたちを召集する遠吠えを挙げる。それに再び必死で答えようとした小狼に突然訪れた死は、最期までオオカミであることを求め続け、陳陣との交流の中でも野生を失わず戦って死んだ、モンゴル人たちの象徴でもある。著者は、遊牧文化がどれほど歴史を通じて世界を豊かにし、かつ今の中国に切実に必要なものかを語り続けることによって、ピリグ爺さんや、小狼の精神を未来に引き継ごうとしてゆく。それが真の意味での中華思想の解体と、中国全土の少数民族を含めた伝統精神の復興に繋がる時、中国はマルクス主義も現代の拝金主義も、そして中華思想と中華帝国主義からも脱却することだろう。

 

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