佐藤優 ウチナーからの挑発

かなり以前に(確か2009年ごろかな)ジャパニズムに書いた文章のように思いますが、ちょっと手直しして載せておきます。沖縄問題への私なりの見解にもなると思うので。

佐藤優 ウチナーからの挑発

 今著述家として大活躍中の佐藤優は、「国家の罠」の文庫本あとがきにて、次のような印象深い記述をしている。「沖縄には独特の人間観がある。一人の人間に魂が複数あるのだ。その一つひとつの魂が個性をもっており、それぞれの生命をもっている(中略)魂の数だけ、真理もあることになる。」ここから佐藤は自らのアイデンテイテイが、ナショナリスト、キリスト教徒、そして知識人のそれぞれに根差していることを説明していくのだが、私には、佐藤の最も重要な「魂=アイデンテイテイ」の一つは、ウチナンチュー、沖縄人としてのそれであると思う。その意味で、佐藤が琉球新報に連載している「ウチナー評論」は,佐藤の極めて重要な文章の一つだ。

佐藤は本連載で「日本国家がもつ暴力性は、太平洋戦争中の沖縄において、十二分に発揮された。住民虐殺、集団自決(強制集団死)は、例外的出来事ではなく、国家の本質そのものに起因するのである」と述べ、保守論壇の沖縄への無理解や誤解を批判し、米軍基地問題では沖縄は徹頭徹尾要求をつきつけよと主張し(この点は私は佐藤に大賛成である)、「沖縄の伝統に根差すならば、教科書検定問題について、徹底的に地元の集団的エゴイズムの立場に立って、中央政府に対して異議申し立てをするのが、土着の保守としての本来の姿勢だ」と述べる。

また、 沖縄独立論にも触れ、それが本土の知識人が笑うような「居酒屋独立論」ではなく、その徴候は本土の「米軍基地の見返りに小金を与えれば沖縄は大人しくしている」といった政策や、沖縄を「全体主義の島」等と誹謗する本土知識人の誠意なき姿勢により、既に現実のものとなる可能性を秘めていると主張する。これらかなり挑発的な問題提起に対し、「日本本土人」としての私なりの所感を述べておきたい。

 佐藤自身、自らが「遠隔地ナショナリズム」の持ち主である事を本連載で認めている。余談だが、大韓航空機事件当時バーレーンで金賢姫の自供を引き出し、日本国の国益と名誉を最前線で守った外交官砂川昌順も、また沖縄出身の外務官僚だった。また、私は韓国で、かって日本兵として大東亜戦争を戦った兵士達にお会いしそのインタビューをしたことがある。遠隔地ナショナリズム、むしろ中央よりも周縁に属する存在こそ、より強固なナショナリズムを体現する事は佐藤ほどの知識人ならば充分判る事だろうと思う。

だからこそ、様々な事実関係を議論する前に、沖縄戦において、本土以上の熱烈な戦士を抱いて、島民は日本軍とともに戦いぬいたのだ。その際、様々な悲劇も、また軍と民間の間の対立もなかったとは思わない。しかし、それと同時に、軍以上に島民が激烈な「聖戦」意識を持ち、敗北を受け入れるよりは自決を選んだ事は充分あり得ることである。そして、その歴史は、決して沖縄にとって負の歴史ではない。

 誤解しないで欲しいのだが、沖縄戦での島民の勇戦を、また私に旧日本軍での経験を誇りを持って語った韓国の元日本兵に、私は「親日派」などという貧しい評価を下したいのではない。それは左派が彼らを「日本軍に騙された被害者」等と冒涜した事の裏返しに過ぎない。彼らの遠隔地ナショナリズムは、日本人以上に日本人にならなければ自らが日本国民として認められず、また日本国へのアイデンテイテイを抱けないという現実の中で生み出されたものであり、その意味では、近代国民国家が、「周縁」「外部」の人々を国民として統合すること自体が、ある種「国家の暴力性」である事は確かなのだ。その上で、近代国民国家である我が日本国が、「外部」である沖縄をも豊に許容できるような文化的深みを持ったものであるべきだという想いにおいて、私は佐藤とそれほど差があるとは思えない。しかし、だからこそ、我が日本が沖縄に偏見を持ってはならないように、沖縄もまた、「地元エゴイズム」を脱却するさらに高い視点が必要ではないだろうか。

 沖縄の歴史について私は詳しくはないが、おそらく根本的な日本と沖縄の問題とは、先述した近代化を巡る矛盾であり、大腸亜戦争や沖縄戦、また米軍基地問題は極論を言えば2義的なものである。近代化は経済、教育、様々な恩恵を民衆に与えるが、同時に、各地域の特殊性や文化伝統を、それが近代化にそぐわない場合はどうしても否定する事になる。この傾向は中央政権から遠い周縁にこそ過激に行われ、だからこそ、逆に激しい中央への遠隔地ナショナリズムが生じるのだ。これもまた沖縄の歴史であり、それを直視し、日本軍=悪、島民=被害者という図式を脱することは、沖縄の歴史を真に自立したものとするためにこそ必要なはずだ。私が大江健三郎の「沖縄ノート」を全く評価できないのは,集団自決の事実関係以前に、沖縄は日本(並びに日米安保体制)を批判する為にのみ被害者として描かれ、沖縄島民が遠隔地ナショナリズムを選択せざるを得なかったことへの何らの理解も愛情も感じられないからである。

 私は日本と沖縄の間にある思想的問題はただ一つ、沖縄が自らの歴史を見つめなおす事によって、逆に我が日本本土の歴史を相対化して見せることではないかと思う。それが出来れば、逆に独立など、殆ど無意味である事がおのずと明らかになるだろう。沖縄は古代から「琉球処分」まで、様々な形で国際政治に愚弄されてきた歴史を持つが、同時にその歴史は、比較的侵略を受けずにすんできた日本本土とはまた別の国家観や、それに基づく逞しい思想を形作る可能性を持つ。佐藤も評価する池上永一「テンペスト」は、通俗的な形ながらそれを志向した文学である。しかし、その作品が日本本土でも、殆ど口コミの形で伝わり、その面白さに多くの読者がひきつけられていることこそが、私は、佐藤が言うような沖縄への無理解や差別が少なくとも国民レベルではありえないことの一つの証明になっている。

さらに言えば、佐藤はこの連載で、獄中で読んだ沖縄古謡集「おもろさうし」の世界への深い感動を綴っているが、逆にこのような沖縄の古代から連なる様々な思想や伝説、そして世界観を日本の神話や歴史伝統と比較し、その共通性、また相違点などを考えていく作業を続けていけば、近代以降のナショナリズムとは違った視点からの、より幅広い「日本」、沖縄も、そして別の意味でアイヌをも包含する日本国が誕生するはずなのだ。前近代の価値観を豊に在在する近代国家こそ、皇室伝統と神道アニミズムという古代からの価値観を現代まで守り抜いてきた日本国の目指す道であり、そこには当然沖縄の歴史も思想も含まれて行く。

その豊かな日本を求める上で、日本本土は同胞である沖縄の傷ついた近代史を理解する必要はあるだろう。しかし同時に、沖縄もまた、その地元エゴイズムや被害者史観から脱する事こそが、真の「ニライカナイ(沖縄の神話的大地、そこから人間には豊穣もまた災厄ももたらされるとする神々の土地)」を見出す道である。佐藤が優れた書き手である事を認めるからこそ、本土への挑発や問題提起を超えた、本質的な提言や仕事を沖縄で展開して欲しい。そうでなければ、現実政治の世界では、沖縄独立論や米軍基地反対論は、中国というさらなる侵略国家に利用される危険性を持つことを、慧眼の佐藤に分からないはずはないと思う。(終)

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