書評 李光洙(イ・グァンス)――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印 波田野節子著  (中公新書)

李光洙が直面した近代との戦い

 7月5日、八幡製鉄所などの「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録が決まった。しかし、韓国は例によって歴史問題を持ちだし登録直前に協議は難航、日本は官民共に韓国の姿勢に、すでに嫌韓を超えて「呆韓」的雰囲気すら漂いつつある。

このような事例が起きるたびに思うのだが、問題なのは、近年の韓国が余りにも単純な反日史観、日本統治下の近代化のプラス面に無知なことではない。一部の日本人に、ただ数字だけを羅列して歴史を語り、支配・被支配の関係が民族間にどのような屈折感情を生み出すかを思いやらず、韓国の反日を裏返したような単純なレイシズムが生まれていることでもない。より重要なのは、近代を他民族支配のもとで受け入れざるを得なかった当時の韓国人の様々な矛盾と、その中で思想的に格闘した朝鮮知識人の存在を、日韓両国が忘れつつあることである。

 その意味で、韓国では未だに「親日」派とされ、また同時に韓国近代文学の祖としても評価されている文学者李光洙の評伝が、おりしも彼が世を去るきっかけとなった朝鮮戦争勃発の6月25日、中公新書から発行されたことの意義は大きい。著者の波田野節子氏は、李の代表作「無情」の翻訳者であり、韓国近代文学の最も優れた研究者、紹介者でもある。本書の発行を喜ぶと共に、韓国人として時代と格闘し、近代の矛盾を受け入れつつ悩み、そして近代を超克する夢を日本とある意味共にしたこの文学者を今回は取り上げてみたい。

近代との出会い 貧しさとバイロン

 李光洙は日清戦争二年前の一八九二年、平安北道定州に生まれた。家柄はよく財産もあったはずなのだが、両親ともに日本、ロシア、清国がしのぎを削る朝鮮半島の激動の時代にはとてもついていけない古い世代で、祖父の代から傾き始めていた家を売り払い、得た資金でさらに安い家を買い、その余剰で暮らしていくことを繰り返す、はっきり言えば生活無能力者だった。李光洙が八歳の時に両親は病で世を去り、その後は子供たちは親戚に家を転々とするはめとなった。両親の世代全体に対し、李光洙は後にこう述べている。

「祖父も父も叔父も、みんな世間では何の役にも立たない人たちだった。先祖の遺産を受け継いで遊び暮らし、そして金がなくなると慌てる、そんな人たちだった。飢える日が目前に来ていることを見ながらも、どうしていいかわからない人たちだった。自分の生活に無関心なだけでなく、世間のすべてのことについて無関心だった」

 これは、確かに李氏朝鮮の専制支配体制と、両斑制度がもたらした社会の停滞だった。そして、私はこのような運命を見るとき、現在の北朝鮮の孤児たちのことを思わずにはいられない。だが同時に、李光洙は孤児として親戚の家を転々としつつも、書物は手放さず、伝統的な漢書、ハングル文を学び、目の悪い祖母日本を読み聞かせ、また朝鮮古謡に親しんだ。そして、美しい伝統を作り上げた父たちの世代を、怒りだけではなく、次のようにも讃えずにはおれなかった。

「それでいて彼らにはある善良さ、私には真似できないような善良さがあった。」

 李光洙の生涯を貫くモチーフが、この両方の記述に現れていると言ってよい。彼は何よりも、祖国の停滞と、民族の無気力な現状への怒りを生涯忘れず、手段を選ばず民族を覚醒させ、そして近代的な改革を実現しようとした人である。やや結論を先んじて言えば、独立運動への参加も、親日派と後に決めつけられた日本との協力を指向したのも、すべてはそのための手段だったと言ってもいい。しかし同時に、彼はそのような近代化が、残酷なまでに朝鮮半島の伝統、祖父や父の世代には確かにあった、封建道徳と秩序に裏打ちされた「善良さ」、もっと言えば「礼節」を破壊していくことを忘れなかった。近代という魔物の魅力と恐怖が、少年時代から彼の原点として刻まれたことが、李光洙の偉大さとともに悲劇をもたらした。

 そして、少年李光洙は東学に出会う。偶然街で出会った東学教徒の家に誘われ、そこに住み込みながら教えを受けた李光洙は、東学を自分なりに解釈しつつ、今世界を覆う近代化とは「戦い」「生存競争」「弱肉強食」の世の中だという認識を深めていった。東学党三代目教主の孫秉熙は、近代化を学ぶために青年の日本留学に熱心であり、一九〇五年、李光洙は教団の留学生として日本留学の機会を得る。その後、教団内の分裂や日本での留学生と日本国とのトラブルなどから一度は帰国するが、一九〇七年、再び明治学院大学に編入入学。ここで、キリスト教、木下尚江やトルストイの人道主義、そして何よりもイギリスの詩人バイロン、もっと正確に言えば、特異な思想史家、木村鷹太郎を通じたバイロンの思想に徹底的な影響を受けることになった。

 この木村鷹太郎という人物は、今では「トンデモ本」こと、途方もない架空の古代史を語る奇人とみなされている。しかし彼の本質は、プラトン全集の初の翻訳を成し遂げ、西欧思想にも真正面から受け止めようとした明治の知識人が、西欧の理想の崇高さと、日露戦争後の三国干渉に観られるむき出しのマキャベリズムにぶつかり、思想的に激しい分裂をきたし、奇矯な日本主義に落ち込んだことにある。木村のバイロン論は、ピカレスク・ロマンであるバイロンの「海賊」などの物語詩を、世界を動かす根源的なエネルギーは、悪魔と見まごうまでの欲望の発露であると強引に読み解いたものだった。「欧米キリスト教国の人民は文明なりと誇れりといえども、その内部は破裂せんばかりの欲望に充てるなり。唯それ欲望有。これを持って強大なるなり」(木村)李光洙は、帝国主義の時代はこのようなものだと認識した。一九一〇年三月卒業後、祖国の学校教師となってまもなく、韓国は日本に併合される。李光洙は亡国を激しく嘆いた。

「私は道端にしゃがみ込み、どれほどの間か知らないが一人で泣いた。国が滅びる。国が滅びると口では言っていたが、それでもまさかと思っていたのだ。」「力!そうだ力だ!日本は力で我が国を奪った。奪われた国を取り戻すのも力だ!大韓の国を押さえつける日本の力は、それよりも大きな力を持ってしか押し返すことができない。」

 李光洙の生涯や文学活動を詳しくたどるのは本稿の目的ではないため、略させていただくが、この後、彼は真摯に啓蒙活動や、海外での独立運動にもコミットしていく。同時に代表作「無情」の発表、一九一九年二月八日に発表された「二・八宣言」の起草と亡命、上海の韓国臨時政府との出会い、最も優れた独立運動家の一人、安昌浩の主導する「興士団」への参加(特に興士団の思想、個々人が人格的に成長し自立できなければ、国家の独立はなしがたいという思想に李光洙は共感した)、上海での「独立新聞」発行など、李光洙は病弱な体に鞭打って活動を続けた。開明的な女性で医者の許英肅との結婚も、彼の仕事と健康には大きなプラスとなった。

しかし、李光洙は二・八宣言、そして故郷韓半島における三・一独立運動が、犠牲を生み出しただけで何ら具体的な政治的効果を挙げられず、第一次世界大戦後、民族独立と自決権を唱えるはずの国際社会も韓国の独立への支援はなく、亡命地上海での臨時政府も内部抗争を繰り返すだけの現状に悩み、ついに臨時政府内の反対を押し切って、一九二一年亡命の地上海から朝鮮半島に戻る。

一九二二年、李光洙は「民族改造論」を発表、そこで朝鮮民族を「①嘘をつかず②空論ではなく実行③信義を守る④勇気を持つ⑤私より公を重視する⑥専門技術を持つ⑦経済的に独立する⑧衛生と健康に留意する」よう「改造」してこそ、朝鮮人は「健全な帝国主義者にも、民主主義者にも、労働主義者にも資本主義者にもなれる」と述べた。この発想は、李光洙のものというより、安昌浩の興士団の思想である。しかし、李光洙は安全な亡命地ではなく、朝鮮半島の現地で直接民衆に訴えようとした。そして、一部では高みからの自民族批判と誤解されたこれらの提言は、独立運動や言論活動に全力をかけて闘ったものが、自らも含め、現在の運動に、そして運動を担うべき朝鮮民族個々人に何が欠けているのかを真剣に問いかけた総括であった。さらに民衆への啓蒙と実践的な意識改革をめざし「修養同友会」という民間団体を編成することにも拘っていくが、参加者の多くは政治活動の展開を望み「修養」という言葉は廃される。これが後の逮捕劇にもつながってゆく。

反欧米の立場から親日派への道のり

 李光洙はその後、韓国の歴史を小説の形で次々と発表する。これらの連作は、歴史上の英雄や悲運の著名人をたどりつつ、歴史への愛情と民族の誇りを呼び覚ますものだった。独立運動や日本への抵抗を試みた若者たちの多くがこれらの連作の愛読者だったことがそれを証拠づける。李光洙は決して独立への意志を失ったわけでもなく、日本に媚を売るつもりもなかったのだ。

しかし、彼の思想には明らかに変化が訪れていた。李光洙はこの時期「相争の時代から相愛の世界へ」という論文で次のように述べている。

「人類の最大多数に共通していたこの理想(相愛主義)に反対する唯一の悪魔的思想は、ローマに源を発する権利思想です。この思想は、人類の利己的闘争本能に迎合して千年以上も白人種を獣化し、近代にいたると、自然科学の目もくらむような威力を借りて、東洋の諸民族にまでこの権利思想の毒液を注射したのです。」そして、青年時代はあれほど評価した「生存競争」の理念を全否定し、東洋の「相生」「相愛」の理想を讃えた。

 おそらくこの思想的転換の背後には様々な現実がある。一つは、上海で体験した西洋列強の植民地支配と中国侵略の実態をかいま見たこと、そしてウイルソン大統領や国際連盟の提唱する理想像とこの実態とのギャップからの国際社会への絶望、さらには、もはや外部の力によっても、朝鮮民族そのものの隔世によっても独立は困難と判断した絶望から、日本との和解、そして地道な内政改革によって少しでも事態を前進させようという意志と、近代的価値観そのものが、現状の植民地体制や、各民族の激突をもたらしているのではないかという根源的な疑念。李光洙は真摯に現実に向き合い、自らの思想を再検討しようとしていた。一九三二年に書かれた「昔の朝鮮人の根本道徳」では、少年時の自分を孤児にまで追いやったはずのかっての伝統社会を、その美点において再評価しようとしたようだ。朝鮮の村落共同体を、あえて良い意味で「全体主義」とし、英米風の個人主義によってその美点が侵食されていくとまで述べたとき、おそらく李光洙は、父の世代との和解の道をも模索していたのではないだろうか。

 そして、李光洙に決定的な転機をもたらしたのが、一九三七年の治安維持法容疑における逮捕だった。日中戦争前夜、独立派の一掃、左派の影響の排除、朝鮮半島における統制の強化が図られたこの逮捕で、安昌浩は病死、李光洙は釈放後、完全なる親日派転向声明と後に見なされる「申合」を、一九三八年に日本語で書き発表する。一九三三年の佐野・鍋山の転向声明と同様、この文書は今読むと様々なことを考えさせるものがある。 

 ここで李光洙は、自分たちが日本の朝鮮統治を、イギリスやフランスの植民地支配と同一視してきたが、それは誤謬であった、また、明治大帝の一視同仁は言葉に過ぎず、実現はされないものと思い込んでいたことを自己批判した。そして、シナ事変とその後の展開は、日本の理想は欧米帝国主義と全く違うものであることを理解し、八紘一宇の理想のために「まずはアジア諸民族をして欧米帝国主義と共産主義の桎梏より脱せしめ、東洋本来の精神文化の上に共存共栄の新世界を建設すること」が日本の目的であり、それに朝鮮民族も、決して日本の従属者でも追従者でもなく、日本国民の重要なる構成分子として個の偉業を分担することを国家より許され活要求されたものと我々は理解する。「日本帝国は朝鮮民族をば、植民地の被統治者としてではなく、真に帝国の臣民として之を受け入れ」た。李光洙はこのように述べ、天皇への忠義、日本国民として帝国の理想実現に全力を尽くすことを宣言した。

 このような文章を、李光洙が何の抵抗もなく、率直に書き信じたというのは、余りにも彼のこれまでの信念を軽く見るものだろう。李光洙は、例えば韓国語を全廃して日本に完全に同化することを唱えた玄永燮や、全く無批判に「陛下の赤子」「国体の尊厳」を唱えた朴煕道のような、まさに民族のアイデンテイテイを放棄したような事大主義者とは志が違う。おそらく李光洙の精神に深く根ざしていたのは、独立への絶望であり、日本統治が継続する以上、その中で朝鮮民族も役割を果たすことによって尊厳を勝ち得ていくしかないという覚悟であり、修養同友会のような穏健な試みすら挫折し、自らの民族の覚醒をなし得ない無力感もあったはずだ。また、一方では、李光洙は、八紘一宇の理想の中に、もしかしたらアジアが日本によって解放され、西欧近代主義を乗り越える新たな価値観が生まれてくる可能性にかけたいという思いもあったはずである。

 一九四〇年、李光洙は「香山光郎」と「創氏改名」し、これ以後大東亜戦争中、日本語の小説を次々と発表する。そこでは、朝鮮人と日本人の恋愛や戦場での同志愛を描いたものもあった。同時に、日本留学生を学徒として志願するよう呼びかけるとき、李光洙は「君たちが犠牲になって功を立ててこそ、わが民族は差別を受けず生きていける。朝鮮民族のために戦争に行ってくれ」と呼びかけたのを、当時の学生がはっきりと記憶している。また、赤ん坊の時に日本に来て日本語しかしゃべれない朝鮮人少女をテーマに、彼女が朝鮮の歴史や民族性に目覚めていくという、ある意味「在日朝鮮人文学」の始まりというべき作品も発表した。これは雑誌「新太陽」に掲載されたが、当時は一九四四年七月。東條内閣は総辞職して都会の疎開が始まっていた、しかし、「新太陽」社長馬海松は、朝鮮人が空襲におびえて逃げたと言われたくない一心で、東京に残り会社と出版を維持していた。二人には相通じる覚悟があったのだろう。

 大東亜戦争の敗戦後、李光洙は親日派、民族反逆者として逮捕された。しかし、彼は安易な弁明も自己批判もしなかった。あえて自己弁護と取られようとも、「私は民族のために親日をしました。」「私の歩んだ道は正道ではありませんが、そうした道を通る民族への奉仕もあることを理解してください」と述べ、「我が告白」という理論的回顧録でも親日派としての活動を隠さずに述べた。おそらく李光洙は、同じ時代を生き抜いた同胞たち、自らの呼びかけで大東亜戦争に志願兵として赴き散った若者たちのために、彼らも愛国者であったことを訴えたかったに違いない。

 朝鮮戦争勃発後、李光洙は北朝鮮軍に連行され、一九五〇年に病死したと伝えられる。彼の魂は、今の日韓両国を、どのような思いで見つめているだろうか。
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