書評 「文學と政治」臼井善隆著 近代文藝社

特定秘密保護法案や、集団自衛権を巡る与野党の論争を聴いていると、本書に引用されたジョージ・オーウエルの言葉が何ひとつ古びていないことに驚かされる。「政府輿党は『これこれ、しかじかの情況のもとで君はどうするか』といふ問ひに絶えず直面してゐる。が、一方、野党は責任をとる事も、眞に決斷を迫られる事もない。かくて英國の野党の如く、萬年野党で、しかも年金附きとなれば、知的堕落は所詮免れまいといふものだ」(74頁)

オーウエルが作家キプリングを論じつつ、一九三〇年代当時の左派文化人の偽善性を激しく批判した文章である。イギリス帝国主義を擁護し、常に支配階級の一員であることを自認するキプリングの姿勢にオーウエルは嫌悪感を隠さない。しかし「己が安眠を守っている兵士たちを嘲笑う」自称人道主義者や左翼の偽善とはかけ離れた「責任感」をキプリングが持っていたことは認めたのだ。

またオーウエルは対獨戦の最中にも、ヒットラーが、人間は平和と快楽だけを求めるのではなく「私が諸君に提供するのは闘争と危険と死である」という宣言に共感し奮い立つ存在なのだと見抜いていた点は正当に評価した。この言葉は、今世界各地での民族紛争や宗教原理主義運動とグローバリズムの衝突すらも預言しているが、同時に著者はオーウエルの言葉を引き受けてこう綴る。「なぜ、人は國を愛し、武勲を尊び、闘争を欲し、自己犠牲を厭はぬのか。それは、人間が文化伝統の所産だからであり、その為なら戦ふ事も辞さぬような何かを見出しているからである」(76頁)

この様な言説はいつの時代も、左右いずれからも反時代的言説とされる。オーウエルが左派でありながら同陣営の偽善を許さず、ソ連全体主義の悪とも真正面から闘いつづけたように、著者も本書各所で、丸谷才一や井上靖らの俗物性と共に、保守派と称される文化人や政治家の偽善を鋭く切り続けていく。

そして、ここで真正面から論じられるT・S・エリオット、テネシー・ウイリアムズといった作家たちは、伝統が崩壊し、信仰が失われた大衆化社会を、旧約聖書のヨブのような絶望的な孤独と絶望の中、この時代に人間は生きる意味をいかに見出すかを思考し続け、ヨブ同様、逆説的な形で神に出会った人々だった。彼らを論じる著者の筆は決して難解ではなく、むしろウイリアムズ作品の最も分りやすい解説と言ってもよいが、同時に、彼らのクリスト教伝統と私達の間には、軽々しく理解も交流もなしえない絶望的なほどの深淵が控えていることを感じさせる。

そして、このような苦悩とは無縁だった時代のシェークスピア作品が、時代を超えて私たちを感動させることを、特にハムレットを四楽章の古典交響曲のように味わうことを教えてくれる著者の筆は、シェークスピアのみならず、東西の古典を如何に読むかの智慧を読者に教えてくれるプロスペローの杖を見るようだ。

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4 Responses to “書評 「文學と政治」臼井善隆著 近代文藝社”

  1. 岡田俊之輔 より:
    論旨自體には全く同感なのですが、引用文の漢字・假名遣の誤轉記はともかく、著者名の誤記は戴けません。

    ×義隆 → ○善隆

  2. miura より:
    ありがとうございました、これは完ぺきにぼけてましたし著者にも失礼でしたね。
    直しました、これ以上恥をさらさず住んだことに御礼を申し上げます
  3. 臼井善隆 より:
    三浦小太郎 様

    良い書評を頂き有難う御座いました。三浦さんのご活躍はテレビ『桜」の座談会や、国会議事堂前の集団的自衛権立法支持の集りなどで拝見してをります。私も行きたかったのですが、行けなくて残念でした。今はYahooのworld news Asiaで支那人や朝鮮人と喧嘩をやつてをります。歴史的事実を歪曲し、捏造して反日宣伝をやつて居る奴らを放つて置く訳に行かないし、日本の政府も外務省も全く反論しようとしないので、腹に据へかねてやつてゐます。(英語なので日本語で遣るやうな訳には行きませんが)、中村あきら(漢字が出てこないので失礼)さんが居てくれたらと残念です。

    ご活躍を祈念致します。

    先づはお礼まで。   

    臼井善隆

  4. miura より:
    光栄の至りです。来月1日発売の正論1月号に、チベットの焼身抗議について書かせていただきました。ご一読くだされば光栄です。
    桜の討論番組では恥をかきまくってますが、まああれも一つの修業かと。

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