書評 「チベットの先生」 中沢新一、ケツン・サンボ著 角川ソフィア文庫

チベットの先生 中沢新一、ケツン・サンボ著 角川ソフィア文庫

本書は中沢新一氏が、彼のチベット仏教の師であるケツン・サンポの回想録をまとめ、それに序文と解説を付けたものだ。まず、この序文が素晴らしい。1980年代の亡命地における中沢氏とチベットのラマたちの出会いの記録は、チベット仏教文明の最も純粋で偉大な精神が最後の輝きを放っていた瞬間を見事にとらえている。

そして、ケツン・サンポ氏の回想録は、中国の侵略以前の、信仰と修行、そして真の意味での知恵を求めることが人間の最大の価値であった文明が確かにこの世界に存在した事を私達に教えてくれる。特に、死期を悟った時に死を少しの恐れもなく受け止め、己の体を虹に変えて転生するラマの姿は、奇蹟談にありがちな神秘主義はみじんも感じさせず、ただ、このような世界がありえたのだという不思議な感銘を与える。

だが、中国の侵略はこの古代からの文明を破壊しようとした。強力な侵略軍に乏しい武器で闘うチベット兵士と、彼らに祝福をささげるラマの姿は深い感銘を呼ぶ。そして「共産党の指導者たちが、どんなに自らの偉大さを誇ったところで、そんなものは、ダルマの真理の前には、己の醜い権力欲を隠すための、みじめな奴隷の仮面にすぎない」(本書229頁)ことを、チベット文明の継承者である著者もチベットの民衆もよく知っていた、そして今も尚、国内外のチベット人は、この真理を見失っていないはずである。(終)

以上は、チベット文化研究会の会報用に書かせていただいた文章を一部修正したものですが、本書は以前「智慧の遥かな頂」という題名で出版された本の文庫化です。私の記憶ではいくつかの魅力的なエピソードがカットされてしまった気がするのですが、それを補って余りあるのがここでも触れた中沢新一氏の序文。私は正直、中沢氏の最も素晴らしい文章の一つだと思う。実はこの文章の元となった講演会、私は同じくチベット文化研究所の講演会で聴くことができたんです。現代思想を語るときはちょっとアクロバテイックに過ぎるように感じる中沢氏の語り口が、このチベットのラマたちを語る時には、ひたすらな敬意と、このような文明が失われて行くことへの哀切な感に満ちていて、心にすうっとしみこむような講演会でした。ぜひご一読をおすすめします。

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