昨日は靖国神社で夜桜の花見をしました

昨日靖国神社に午後6時ごろ赴きまして、夜桜のお花見をしました。まあ花見なのか酒飲みなのか分からなくなってしまうのは日本人の常ですが、多分滅茶苦茶混んでいるだろうと思ったらどうも千鳥ヶ淵方面に皆さん行ったようで、靖国神社の方は混んでいたとはいえ充分ゆっくりくつろげましたし、なかなかいい花見でした。東京にお住いの皆様は意外と夜がねらい目かもしれないので、もしお時間があれば一度どうぞ。

昨年古本屋で斎藤正二という方の書いた「日本人と植物・動物」(雪華社)という本を偶然見つけて、ぱらぱらっと立読みをしたところなんとなくおもしろそうだったので(しかも安かった)買って、時々ページをめくったりしていたのですが、この本の桜のくだりも中々興味深いものがあります。特に万葉集では梅の歌が桜の三倍も多いのに、古今集になると梅の歌の二倍を桜の歌が占めるようになるというのはこの本で教えられました(その理由を男性文化から女性文化への変貌としているのはちょっと異論があるのだけど)。また、花をめでるという感覚は7,8世紀以後のもので、それ以前、とくに古代社会では、桜の花の散り具合もある種の占いとして見られていたというのは逆にさもありなんと思います。(さらに、修験道と桜との関係なども本書ではなかなか興味深い記述があります)斎藤正二は翻訳家としても、また牧口常三郎(創価学会創始者)の研究家として著名な方のようですが、私は読むのは初めて。(もしかしたら知らないうちにトウエインの翻訳とかで読んでいた可能性はあるが)。私の学識でははたして彼の論説が正しいのかどうか判断はできないのですが、少なくともこの「日本人と植物・動物」は学ぶところ多い本です。

そして本居宣長の有名な歌「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」について、宣長の弟子の言葉を引用しつつ、要するに理屈をつけずに美しいものをただ美しいと嘆声を発することが大和心なのだ、それはむしろ江戸時代の儒学や形骸化した武士道への批判精神なのだという指摘は100%共感できるものでした。桜をこよなく愛した宣長は、もちろん古事記伝の著者として偉大な国学者でしたけれども、同時に源氏物語の研究者でもありました。源氏物語って、ちょっと乱暴な言い方をしてしまえば、恋愛、不倫、さらにはオカルト趣味まで入った、それこそ儒学伝統からしたら否定されるべきものですよね。しかし宣長の確かな文芸批評の眼力は、モラルやイデオロギーを越えたところに文学は自立して存在し、そのような自由な精神こそが「大和心」であることを見抜いていた。そんなことを桜を観ながらぼんやりと考えながら日本酒を飲んでいました。

色も香も おなじむかしにさくらめど 年ふる人ぞあらたまりける  紀友則

散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか久しかるべき 伊勢物語

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