忘れられたファシスト 下位春吉

(2017年3月25日、ロマノ・ウルビッタ先生より下記の指摘を受けました。

「下位が決死隊に入隊したとは、彼の作り話です。彼は終戦一日前、初めて新聞記者として戦線に近づいた。当時の彼の文通と彼の著作から明らかである。アルデイーティに入隊したとか、彼らに柔道を教えたとか、彼の作り話です。

よろしく」

イタリア現代史、そしてムソリーニやダヌンツイオの研究家である先生のご指摘です。私のバカさ加減を正直に残しておくために投稿は削除しませんが、まことにおはずかしい。先生のご指摘に感謝するとともに、読者の皆様に深くお詫び申し上げます。三浦小太郎

以下は以前月刊日本に書いた文章です。個人的には割と気に入っているので紹介させていただきます

戦前からのダヌンツイオの崇拝者で、ムソリーニやイタリアファシズムにも共感した日本人、下井春吉について調べていたところ、この興味深い人物にすっかり魅せられてしまった。下井はファシズムというより、ダヌンツイオ「主義」に殉じ、幻想のイタリアに生命と人生をかけた人物である。

 なお、本稿は藤岡寛巳(福岡国際大学教員)氏が2011年同大学に発表した「下井春吉とイタリア・ファシズム」を読むことなしにはあり得なかった。ここでの下井、ダヌンツイオの発言や、歴史的事実などはすべて同論文の翻訳を参考にしている。しかし、その解釈や下井の心情の推察などは筆者の文責によるものであることをお断りしておく。

秋月の乱の敗北者の子として

啓蒙家から決死隊へ

 下井春吉は福岡県士族井上喜久蔵の四男として生まれる。この喜久蔵とは、明治新政府への士族反乱、秋月の乱への参加者の一人だった。この後1925年、秋月の乱から50年を経て、この決起を記念する演説会で下位は講演することとなるのだが、おそらく彼は、父の参加したこの乱の敗北を思想的原点として決して失わなかった。しかし一家は没落士族として一家は状況、春吉は1907年、東京高等師範学校英語科に入学し、下位嘉助の養子となる。

下位春吉はます文学者、啓蒙家として出発した。1911年には「大塚講話会」を設立し、童話の創作やその語り口(口演活動)を行うと共に、1917年に『お噺の仕方』を発表した。これは近代日本語論としても興味深いのだが、明治維新後、おそらくこの時期までの「弁舌」の言葉は、西欧近代の価値観と旧来の日本語、漢語をいかに結び付け、かつそれまでの日本には必要なかった大衆社会への演説、講演、啓蒙などのスタイルを確立するかの様々な努力が知識人たちによってなされている。下位もそのような実践者の一人だった。
下位はその活動と共に師範学校などで教鞭を取り、東京外国語大学伊太利語科に学びイタリア語を身につけると、1915年秋、下位は単独、日本を出航し、ダンテ研究のため単身ナポリに旅立ち、王立東洋学院(現在のナポリ東洋大学)で日本語を教えながら、イタリアの若い文学者と交流しつつ、与謝野鉄幹・晶子、泉鏡花、吉井勇などの作品をイタリア語訳するとともに、雑誌「サクラ」を刊行、樋口一葉・国木田独歩・森鴎外・土井晩翠・二葉亭四迷など明治以降の現代日本文学の翻訳を精力的におこなっていく。
この様な活動を見ていると、この時代の日本人の方が、現代よりもはるかに「国際人」だったことを知らされるが、ダンテを研究したいという姿勢とは裏腹に、彼の翻訳する日本人作家には一定の傾向がみられる。近代化を全面的に肯定する作家よりも、現在はロマン的で自由な表現を表していてもその基本を江戸時代の伝統に置く与謝野晶子、もっと純粋に江戸文学の系列に属する樋口一葉、江戸文学の幻想性を近代のゴシック文学に書き換えた泉鏡花、近代価値観を理解し尽くしつつ明確な違和感と距離感を表明した森鴎外など。この選択は偶然のものとはとても思えず、下位が日本の何を紹介したかったかをうかがわせる。
そして、もう一つ偶然とも思えないのは、下位がイタリアへ向かうことを決意した時期の1915年は、ちょうど前年にはじまった第一次世界大戦にイタリアがついに参戦する年だということだ。未来は誰にも予測できないとはいえ、この時期にイタリア行きを強行するのは、おそらく戦争が起きることを覚悟の上の渡航だったとしか思えない。
下位自身の言葉によれば、初めてイタリア軍義勇兵として参加したのは1918年のことである。まず下位は日本大使館から通信員資格で派遣されたようだが、自ら第一線を志願する。大戦末期、前年10月のカポレットの戦闘では、ドイツ・オーストリア軍は毒ガスを使用、混乱するイタリア軍(しかも司令官は敵の情報を掴みつつも無策だった)に悲劇的な打撃を与えたのだが、新司令官ディアズは的確な指揮を執って敗走を食い止め、この時期は軍も士気を回復して反撃に転じようとしていた。
下位は、「決死隊の軍服を貰って第一線に出」「激戦地の一つとして、丁度日露戦争の旅順に相当する」戦いに参加したと書いているが、この「決死隊」とは、藤岡氏によれば、突撃隊とも訳されるアルディーティ(果敢な者たち)のことで、最低限の武器を装備して、単独あるいは少人数で敵陣に攻撃をしかけたり、斥候としての任務を負った特別編成の兵士である。彼らは戦後、ムソリーニに先駆けて「戦闘ファッシ」といわれるファシズム運動のもっとも革命的な思想と行動の基盤となる。イタリアの自由主義政府は、保守派、改革派を含めてこの参戦には反対だった。これは近代ブルジョア政府として、勝利してもさしたる経済的利得をもたらす保障もなく、また勝利の可能性もおぼつかない戦争を避けるのはリアルポリテイクスとしてある意味当然だった。しかし、そのブルジョア支配そのものを批判した国内の左右の革命勢力、そして損得を超えた国家や民族の栄光を求めるダヌンツイオ的芸術至上主義者、また戦争の中にすら既存の社会道徳や秩序、常識の破壊への衝動を見出し賛美したイタリア未来派などの前衛芸術家、文学者など、現状打開を目指すすべての勢力は戦争を選択したのだ。そしてこの決死隊は、この理想に最後まで生命をかけて殉じようとしていたイタリア革命精神の最前線の人々だったのである。下位がこのような状況を完全に理解していたとは思われない。しかし、彼ら彼なりに、この決死隊の中に、明治近代国家建設の陰で切り捨てられていった士族の姿を見出していたはずだ。近代国家の価値を、反動であれ、革命であれ越えようとする者の意識の共振、これを見失ったとき、歴史は単なるイデオロギーで善悪を振り分けられる悪しき政治紙芝居に堕する。
これは偶然であるが、下位に決死隊の軍服を渡したガヴィッリャ陸軍元帥とは、かつて駐日イタリア大使館付特命武官を経験し、日本軍に同道した日露戦争の戦場で近代的な戦術を学び、多少の日本語も解す親日派だった。カヴィッリャは、自軍兵の士気高揚のために日本兵の優秀さを話してくれと、下位を最前線の塹壕に招き、下位はここで日露戦争における日本軍の勇戦を語って大変に歓迎されたという。イタリア文学に見せられ、日伊の友好のために死を賭してもいいと思った下位の誇りと喜びが伝わってくるようなエピソードである。

ダンヌンツイオとの出会いとフィウメでの再会

預言されたアジア革命戦争

下位とダンヌンツイオとの出会いもこの1918年夏だったようだ。この年夏ダンヌンツィオは飛行機でウイーン上空からビラをばらまく、決死のパフォーマンスを行っているが、その直後、ダンヌンツイオの自宅で下位は出会い、戦後には、日本に飛行機で共に行こうという誘いまで受けている。しかし結局、これはフィウメ市占領というダヌンツイオの「戦争」によって中止となった。

1920年2月、ダンヌンツイオが占領中のフィウメを下位は訪れていることが当時の新聞記事のダンヌンツイオ発言からわかる。藤岡氏の翻訳を紹介させていただくが、ダンヌンツイオは下位を讃えて歓迎会を催し、以下のように演説した。
「今晩、イタリアのフィウメのわれらのもとに来てくれた極東からの客人に敬意を表したい。日出ずる国の使者を、このわれらの戦渦の食堂で歓迎したい。長き飛行のため私は彼の地日本へいけなかったが、下位春吉が長き飛行よりここにきてくれた。」
「昨日までの下位はその小柄な体躯の胸におおきなイタリアの心をもっていたが、本日かれはフィウメの星のもとにはげしく燃えるフィウメの心をもつ。カポレット戦の大敗やイタリアの苦しみ、苦難、流血、絶望の日々とを、ふたりして語ったことがあるが、下位よ憶えているか?下位が流す二筋の涙をみて、すぐに我らは兄弟であると知った。その心はわたしを開かせた。 」
「アジアの蘇生、聖なるアジア、広大で至高なるひとまとまりの地域を革新する突然の若返り。その偉大さにおいていかなる歴史的事件がそれに匹敵しようか?中国とロシアを打倒した人々は、現在、全征服地をもとめる。 かれらはアジア支配のみならず、全太平洋に向かう。その力はフィリピン、インドシナ、蘭領インド、そしてハワイを見すえるのだ。」
「『欧州は老いぼれた』という大隈重信の言があるが、ヨーロッパは老いぼれてはいない。ヨーロッパの旺盛な情熱は青年の情熱でしかありえず、より自由でより高いその出現への渇望でしかありえないのだ。大いなる情熱はどこでよりつよく脈打つのか?フィウメにおいてである。どこで最新の生のかたちが構想されはじめるのか?フィウメを囲むカルナーロ湾のこの岸においてである。われらは、イタリアの東の港フィウメから、極東の光差す国に挨拶をおくろう。今度はわれらの番だ。主は近くに在り。アララー!」
 最後の「アララー」とは「エヤ・アラ・ラ・アララー」というダンヌンツイオ独特の、意味はないが戦場の掛け声である。この演説は豪快でありながら実は政治的にも考えられたもので、日本の大陸進出を明確に「古いヨーロッパによる世界秩序」に対する革命勢力としてダンヌンツイオは捕えている。この時代は侵略も植民地化も絶対悪だなどとは認識されておらず、日清、日露戦争の勝利は、日本国の勝利であると共にアジアの民族覚醒、新しいアジアの復興になりうるものだったこと、そして日本のさらなる膨張や侵略ですら、可能性としては「アジアの蘇生、聖なるアジア、広大で至高なるひとまとまりの地域を革新する突然の若返り」につながると述べているのだ。これは決して歴史的には前例のないことではない。ナポレオンの戦争や、ダンヌンツイオの抱いていたイメージからすればローマ帝国のように、侵略そのものが世界の発展と意識革命をもたらすことはありうるのである。このアジアからの現在国際秩序への挑戦を守ろうとしているのが、英米に代表される「老いぼれたヨーロッパ」であり、ダンヌンツイオとここフィウメに決起した戦士たちはこの秩序に対する革命勢力という面では日本と同じ地点に立つのだというダンヌンツイオの論理は、実は後年実現した日独伊三国同盟より思想的に遥かに純化されたものであり、政治的にも高い見地を示している。

失意の晩年と悲痛な言葉

おそらくこの瞬間が下位の絶頂だった。彼はこの後日本に戻り、ファシズム運動、ムソリーニ、ダンヌンツイオを賛美しつつ彼らの伝道者として自らも言論や運動に全力を挙げるが、正直、その雄弁から講演会は成功が続くものの、運動としてはさしたる効果をあげることはできなかった。ダンヌンツイオ同様、彼はやはり文学者、演説家ではあっても、政治運動は出来なかったし組織を作り資金を集めるようなタイプではなかったのである。下位はムソリーニにならってファシズム組織を日本で作ろうとしたが、ほとんどが短期間で失敗している。そして、何よりも演説会場では有効だったのかもしれないが、組織の綱領や政治スローガンは、ダンヌンツイオやムソリーニに比べ余りにも型にはまった壮士風の空虚なものに終わっており、彼にとって政治運動はやはり不得手だったことを残酷なまでに明らかにしている。

その中で私が唯一、下位にとって最大のチャンスではなかったかと思うのが、頭山満の紹介による出口王仁三郎との出会いと、王仁三郎がある種の政治・思想運動として展開しようとしていた昭和神聖会の活動への参加だった。下位が王仁三郎に何を見出したのかはわからないが、おそらく神聖会の表層の言動を超えて、王仁三郎の近代を越えようとする姿勢に共感を抱いたのではないだろうか。しかし、大本教弾圧の中、下位の神聖会での活動は始まることもなく消えた。
 大東亜戦争の最中、下位はイタリア各地の聖人伝説をわかりやすく説くエッセイ風の文章を書いていたという。敗色が濃厚になり、ムソリーニの破滅が日々明らかになっていく中、一方で雄弁に戦争の大義やファシズムへの讃歌を語りつつ、イタリアの巷にひっそりと民衆と共に生き続けてきた聖人たち、村や町の小さな守り神たちの物語を綴っていた下位の心中には何が去来していたのだろうか。
 戦後、下位はファシズムの支持者として公職追放を受けたが、仮にそうでなくても、もはや言論の場も意志も下位にはなかっただろう。1952年1月、イタリアの歴史家でジャーナリストのモンタネッリは下位にインタビューしているが、記憶が混乱しつつも(年齢だけではなく、失意の中、彼はもはや過去の幻影の中に生きていたのではないだろうか)下位は沈鬱な表情をみせながら、「いわば、人間のすることはすべて無意味だ」と漏らしていた。
 しかし、人間のすることがたとえ無意味であったにせよ、下位が出会ったイタリアの突撃隊の勇気、ダンヌンツイオが語りかける言葉の虹が呼びさました人間の意志、そしてダヌンツイオとの思い出に殉じようとファシズムの夢を語り続けた下位の姿に、私たちは意味や結果を超えた、人間はただ一人で世界の運命と対峙することができるのだという確かな精神の気高さと運命に抗する自由の姿を見出すことができるはずだ。それをダンヌンツイオはこのように歌ったのである。

「俺は自由だ

思っても見よ、俺は神の的だ
思っても見よ、この恐ろしい希を
いよいよ輝くみ徴(しるし)を
神に授かるに値するだらうといふことを」(聖セバスチャンの殉教 三島由紀夫訳)
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2 Responses to “忘れられたファシスト 下位春吉”

  1. Romano Vulpitta より:
    下位が決死隊に入隊したとは、彼の作り話です。彼は終戦一日前、初めて新聞記者として戦線に近づいた。当時の彼の文通と彼の著作から明らかである。アルデイーティに入隊したとか、彼らに柔道を教えたとか、彼の作り話です。
    よろしく
  2. miura より:
    これは大変お恥ずかしい間違いをしてしまいました。愚かな過ちを指摘くださったウルビッタ先生に感謝します。ただ、私のバカさ加減を正直に残しておくために、冒頭に先生の言葉を付記したうえで、この記事自体はそのままにしておきます。読者の皆様にも深くお詫びします。

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