満蒙独立運動とバブージャブの悲劇的な戦い

確か6,7年前に書いた文章が見つかったので、記念においておきます
まあたいした知識もないのによくこんなもの書いたなあ
モンゴルのことももうちょっと勉強してみようかな。

モンゴル独立運動 バブージャブの悲劇的な戦い

評論家 三浦小太郎

清朝末期のモンゴル

日清戦争(1894-95年)の敗戦は、それまでの旧態依然の政体では最早清国が成り立たない事を明らかにした。既に遅きに失した面はあったものの、清国は近代化を目指し、日本をある種の近代化のモデルとして積極的に留学生を送り込んだ。彼らは日本の技術や制度を学ぶと共に、後に多くが革命勢力として育ってゆく。さらに、清国は旧体制の

是正の象徴として、形骸化した科挙制度を1905年には廃止し、清国が生き残る為の最後の、しかし空しかった国内改革に取り組んでいく。

そして、近代化とは、同時にこれまで清国が、新疆におけるイスラム弾圧を別とすれば比較的認めてきた、各民族の自治を大きく揺るがすものでもあった。これはモンゴルに対しても及び、日本に倣った形での軍隊の整備や学校の設置などは、同時に従来のモンゴルの自治を揺さぶり、仏教僧侶への優遇、特権を廃止した。

さらに重要なのは、漢民族の入植が積極的に行われ、それに伴う開発の過程で、モンゴル民族にとって最も大切な牧草地が減少していったことである。これに対して、特に現在のモンゴル人民共和国、外モンゴルにおいては様々な反清政府意識が、民衆や仏教界の間で高まっていった。

これに対し、モンゴル各種族の王侯は、むしろ清国政府と協力して漢族の流入を歓迎し、彼らに農地を開拓させ、その小作料を取る形で私腹を肥やす傾向があった。彼らは既に清国政府と一体となり、モンゴルの民衆や伝統を見捨て始めたのである。モンゴル民衆の支配層に対する信頼は大きく揺らぐことになった。モンゴル民衆は牧草地を奪われ、遊牧生活を放棄して、なれない農業に携わる人々が増えて行き、それに伴い、農地開拓や開発の為には漢人高利貸しから多額の金銭を借りねばならない。さらには清国は近代化のために税制度を導入し、貧しいモンゴル民衆の苦しみは一層募った。

まず、モンゴル各地で、「ドゴイラン運動」と言われる、不当な重税や無理な近代化に抵抗する訴状が多く提出され(それは日本における農民一揆のように、誰が主導者か分からないように、円形に署名した訴状だった)やがてこの運動は武装闘争に発展してゆく。

内モンゴルでは、トクトホ・タイジという貴族の指導のもと漢民族への騎馬による襲撃が相次いだ。彼の勢力は1905年から10年まで、延べ104回にわたり、漢人植民者や商人を襲って略奪・強盗、ときには殺人もおこない「馬賊」「匪賊」と恐れられた。このような抵抗は、牧草地を奪われ生活を破壊された人びとの最初の蜂起だった。

この運動の過程で、明確に清国からの独立を志向する運動が生まれてくる。当初彼らが後ろ盾として頼んだのはロシアであり、1911年には外モンゴルで反清感情の強い僧侶や王侯が団結して秘密会議が開かれ、ペテルブルグにモンゴル独立への支援を求める使節を送っている。そして、この動きを大きく加速したのは、中国における辛亥革命の成功だった。

辛亥革命と第一次満蒙独立運動の挫折

1911年10月10日、清朝南部の武昌蜂起が引き金となり、孫文の指揮する辛亥革命が勃発した。同年12月1日、外モンゴルは、モンゴル仏教の首長、ジェプツンダンバ・ホトクト8世を元首・皇帝とする独立国である事を宣言した。それまでポグド・ゲゲーン(お聖人さま)と呼ばれていた8世は、このあとポグド・ハーン(皇帝)と呼ばれることになる。尚、元帝国の時代にチベット仏教を受け入れたモンゴル仏教界では、8世自身チベット民族であり、同時にチンギス・ハーンの子孫だった1世と2世の転生者という位置づけによって、広くモンゴル民衆の尊敬を勝ち得ていたことから、全モンゴル民族統一にふさわしい象徴と考えられたのである。現在私たちの望む中国国内の民族連帯の象徴が既にこの独立運動の中で芽生えていたのだ。

ボグド・ハーンを中心としたモンゴル独立宣言は、内モンゴルでも大きな共鳴を呼び起うしてボグド政府に忠誠を誓った。内モンゴル各地から多くのモンゴル人がフレーにきて、ボグド政権に参加した。前述の「馬賊」トクトホ・タイジや、のちに日本の川島浪速の満蒙独立運動に関係する「匪賊」バブージャブ(パプジャップ)も参加してきた。1913年秋には、モンゴル全土がほぼ独立勢力の支配下となるかに見えた。

しかし、ボグド政府は、モンゴルの完全独立のためにはロシアの支援が必要だと判断していたが、ロシア帝国は、後に述べる1913年10月の「露中宣言」でモンゴル独立支援を打ち切り、むしろ中華帝国の側に立つようになる。内モンゴル各地では、張作霖や袁世凱などの中国軍閥の反撃が起こり、モンゴル軍はたちまち劣勢になった。この時、日の川島浪速が、旧知の清朝皇族、粛親王を通じて、粛親王の妹の夫のハラチン王その他のモンゴル王侯に武器弾薬を援助する。日本の言う第一次満蒙独立運動である。

川島浪速は、1865年に信州松本に生まれ、幼少時から自由闊達な家庭に育ち、青年時から漢書を愛読し、中国に強い関心を抱いていた。中国語を熱心に学んだのも「シナに進出して長夜の眠を覚醒させてやろう」という、いわゆるアジア主義・大陸浪人的な夢想からだった。

日清戦争には通訳として従軍、さらに後の義和団の乱の際には、連合軍が北京を占領した際、紫禁城の一角に立てこもる清の貴族達を、連合軍は武力を以て掃討しようとしたが、平和的解決を望んだ日本軍の意向を受け、川島が説得に当たって彼らを平和裏に降伏させた。その功績と語学力が認められ、川島は清朝側の信頼をも勝ちうるようになる。

しかし、改革の努力にもかかわらず、内部の腐敗や旧勢力の解体が進まない現状は、川島に清朝の終末は近い事、既に統一国家を維持することは中国では不可能である事を考えさせるようになった。辛亥革命勃発は、まさに川島にとって、彼が考える中国分割、即ち「満蒙独立運動」のチャンスだった。川島は革命勢力に対してはあまり同情的ではなかったが、中国の平和と安定、そして同時に日本の大陸進出という国益を両立させる施策として、積極的な満蒙独立論者だった。川島は日本政府にも働きかけ、みずからも積極的に大陸浪人などを通じてモンゴル独立運動に武器を送ろうと試みた。

しかし、1912年、袁世凱を支持し、強力な軍事力の元での中国情勢の安定、さらにイギリスの権益確保を求めるイギリス政府は、日本に独立支援などは控えるべきだと通知してきた。ロシアも同様であった。モンゴル独立政府が頼みとしたロシアは、外モンゴルの地域に限って、中華民国下の高度な自治しか支援できないという姿勢だった。そして日露間には、1907年に満洲の鉄道接続について、第一次日露協約が結ばれたあと、1910年の第二次日露協約では、満洲を両国の特別権益地域に分割する秘密協定を結び、1912年7月、北京の南北を走る線の東は日本、西はロシアの権益地域とする秘密協定が結ばれていたのである。川島の工作には、日本政府からも中止命令が出され、武器弾薬供与も失敗した。

結局、1912年11月の露蒙協定で、ロシアはモンゴルに圧力をかけ、独立宣言を自治宣言に格下げさせ、その上でロシアの権益を認めさせた。モンゴルは英・仏・オランダ・日本の大使に面会を求め、何とか外モンゴルだけでも独立を実現しようとむなしい外交努力を続けたが、結局事態を好転させることはできなかった。1913年1月、モンゴルは、チベットと相互独立承認をおこない、さらにロシアではなく今後は日本の支援を求めて日本領事館に使節を送ったが、これも当時の日本政府の消極的姿勢から、むなしい試みに終わった。

13年11月に交わされた露中宣言は、ロシアは外モンゴルにおける中華民国の宗主権を認め、中国は内政・通商・産業にわたる外モンゴルの自治を認める、露中両国は軍隊を派遣せず、植民を停止する、というものだった。この内容をモンゴルにおしつけるための露蒙中の三者会議が、翌14年9月から15年6月までキャフタで開催され、モンゴルは結局、中国の宗主権を認めさせられた。しかも「外モンゴル自治」だけで、内モンゴルは中国領に留めおかれた。

第二次満蒙独立運動

ボグド政府は内モンゴルから撤退せざるを得ず、内モンゴルにいた独立派の指導者は、それぞれの故郷へ帰った。しかし、前述のバブージャブは、全モンゴルの統一を望んで、部下千余騎とともに内蒙古に留まった。この行動に対し、外モンゴルのボグド政府は、中国やロシアの圧力下で、かつての独立運動の同志に対し討伐軍を送るしかなかった。バブージャブは当時このような書簡を残している。

「帝政ロシア、中国、モンゴルの三国協定の結果は、あまたモンゴル人の期待を裏切って締結され、ハルハアイマクの地も(外モンゴル:三浦注)又中国の一地方と定められたということである。事実とすれば、それはどうしても受け入れ難いことである」

しかし、バブージャブが最早頼るべき勢力は、一つしか残されてはいなかった。それは日本であり、しかもこの時は、まだ日本政府の主流派とは言い難い満蒙独立論者達だった。

再びバブージャブに接近してきたのが川島浪速である。

当時、辛亥革命で孫文派は弱点を突かれ、袁世凱の軍事独裁に変わっていた。皇帝になろうという時代錯誤の夢を抱き、かつイギリスの支持を受けている袁世凱に対し、日本政府も何らかの対応を取る方針に傾きつつあった中、川島は満蒙独立運動支援を再開させる為にバブージャブと会見し、その人物や勇気、信念に大いに共感したようである。これが第二次満蒙独立運動である。そして、今回の運動は清朝の復興を画策する運動、ひいては後の満洲帝国建国を先取りするような発想とも関係していた。

川島の作戦は次のようなスケールの大きなものだった。馬賊隊を主力にした武装勢力が遼東半島で決起し、中国政府の注意を引き付ける。その間に、バブージャブ軍と日本の支援義勇軍らが、モンゴルから満洲に侵攻、そこで各地の秘密部隊が決起する。孫文派との衝突が南部で続き、袁世凱も簡単に動きが取れないうちに、奉天を占拠して仮政府を樹立、さらに北京に侵攻して満洲、内モンゴル全土を領有する独立国を建国し、そこに清朝の皇帝を迎えるという、良かれ悪しかれ大陸浪人的な発想だった。

このような軍事的投機というべき作戦が果たして実現可能だったかどうかは正直疑わしいが、革命運動も独立運動も、ある意味政治的投機であることに変わりはない。そして、清朝復興にはおそらく興味のなかったバブージャブだが、現実の支援する武装勢力はこの日本の大陸浪人グループ以外にはなかった。

川島は確かにこの作戦実現の為に精力的に動いた。将来の利権に繋がる事をちらつかせて資本家から資金を引き出し、秘密裏に武器弾薬を苦心しながら輸送した(味噌樽や沢庵の樽に入れて貨車で運んだと言う)。しかし、日本政府や満洲現地の日本軍の中には、やはりこのような無謀とも思える作戦については賛否両論だった。ここで決定的だったのは、1916年6月、袁世凱が急死したことであった。日本政府内の独立支持派も、袁世凱の政権を揺るがす手段としてこの作戦を認めていたのであって、独立運動に対する同情心は薄かった。作戦目的自体がなくなった今、工作中止が決定される。

バブージャブ将軍の戦いと死

しかし、作戦通り南下していたバブージャブ軍は最早引き返しようがなかった。7月からバブージャブ軍と、主として張作霖軍との間に激しい戦闘が始まる。ある意味、全ての国に見捨てられた今、バブージャブ軍は最も純粋なモンゴル独立運動の戦士になったともいえよう。

8月バブージャブ軍は郭家屯を占領するが、勇敢に戦うバブージャブ軍も、日本の支援を失っては弾薬も武器も乏しかった。苦戦が続き、9月1日、バブージャブは、戦死者を弔う慰霊祭を行い、撤退を決意する。川島らが交渉に当たり、張作霖軍との一時的な休戦条約が結ばれ、平和的な撤退が行われるはずだった。バブージャブ軍には多くの馬賊や日本人が参加し共に闘っていたが、総勢5千8百人がこの日内モンゴルへの帰途についた。

ところが、張作霖軍は休戦条約を無視し、撤退中のバブージャブ軍に攻撃をかけてきた。

張作霖は、この機会に、バブージャブ軍を徹底的に叩き、後顧の憂いをなくしておきたかったのだろうが、重大な約束違反であることに変わりはない。バブージャブ軍は反撃し、日本軍の守備隊までもが応援に駆けつけ、一時的に張作霖軍は追い払われたが、内モンゴルへの撤退は、バブージャブ軍にとって、最も苦しい後退戦を強いられることになった。

約1ヵ月後、戦闘と寒さの中で深く傷ついたバブージャブ軍は、内モンゴルの入り口の林西城にたどり着いた。そこで再び戦闘が起こり、故郷を前にして勇戦したバブージャブ軍は張軍を打ち破った。バブージャブはさらに、選りすぐりの主兵1千名を率いて騎馬で敵軍の本拠地に突撃をかけた。陣地からは機関銃の一斉射撃が火を噴き、バブージャブは戦地で斃れた。彼の激しくも短い独立戦争はこうして終わった。そして、多くの日本人義勇軍も共に斃れた。

バブージャブの闘いは、今の視点から見ればやはり幼稚な軍事的投機だったと見なされがちである。確かに、彼の思想や行動は、近代的な民族意識や独立運動と言うより、むしろこの文章の最初で述べたような、牧草地を奪われプライドを傷つけられて決起したトクトホ・タイジたちの戦いに近い。最後には、日本側の清朝復興運動、しかもかなり空想的な呼応する形でしか決起するチャンスはなく、絶望的な戦いの中で死を迎えた。しかし、この様な民族のプライドと、純粋な抵抗精神は、まさに最後に近代的な機関銃の前に、勇気だけを武器に突撃していった遊牧民の誇りに象徴されるような、全ての政治的思惑を超えた美しい精神のあり方を示していることもまた疑えない。

そして、バブージャブを支持した川島浪速、そしてその系列の多くの大陸浪人達については、本稿では取り上げなかったが(伊達順之助を初めとし、誰一人をとっても小説がかけそうな人々ぞろいである。一例を挙げれば、将来血盟団事件で安田善次郎を殺害した朝日平吾もバブージャブ軍に加わっている)彼らを単なる侵略の尖兵や、空想的な冒険家とだけ見なすべきではあるまい。モンゴル独立を、たとえかなり誤解した形であろうと夢みて、日本政府がこの運動を見捨てた後も、バブージャブ軍と共に最後まで戦った彼らの情熱がどこから来ていたのか、私達は今再考してみるべきではないか。

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2 Responses to “満蒙独立運動とバブージャブの悲劇的な戦い”

  1. あるみさん より:
    「民族独立」「民族自決」の問題は、ホントに難しい問題ですね。
    左翼の側がら言うと、一応レーニンもそうゆうことを唱えていました…しかし完全な実行はできなかった…
     いわゆる「抑圧民族」(この場合は漢民族…そしてそれを利用しようとした英帝、露帝の批判が必要となります)
     話はとびますが、いわゆる「イスラム原理主義」やアルカイダ、ISISも、この問題を解決しきれない「帝国主義者」に根本的な原因があると思います。
  2. miura より:
    私は脱北者や、ウイグルや南モンゴルの方と、ごくわずかですが接した感覚で申しますと、確かに「抑圧者」は悪いことはわかっているのですが、同時に、「被抑圧者」の側にある問題点、弱点を直視し、それを乗り越える努力を被抑圧者の側がしなければ、決して抑圧者に勝つことはできないし、仮に勝って自らを解放したとしても、今度は彼ら自身の中でもっとひどい抑圧構造や独裁制、もしくは混乱をもたらしてしまうのだなということを最近とみに思うようになりました。まあ、いまさらと言われればおしまいですが、最近、とみにそう思います

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