渡辺京二著「幻影の明治」の書評を、5月18日の西日本新聞に掲載いたしました

渡辺京二著「幻影の明治」の書評を、5月18日の西日本新聞に掲載いたしました
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幻影の明治 渡辺京二著 平凡社

 本書冒頭の「山田風太郎の明治」にて紹介される山田文学はまさに世界文学だ。「幻燈辻馬車」は自由民権運動の政治的暗部を、戊辰戦争の悲劇を象徴する幽霊の復讐劇を絡ませて重層化した、ガルシア・マルケスら南米幻想文学に通じる作品として、また「地の果ての獄」は、セリーヌ「世の果ての旅」のような近代精神の地獄巡りとして読み解かれる。読者は明治という時代の奔流に苦闘した「名もなき人々」の人生を一大交響曲のように織りなし、そこに実在の政治家や文学者を散りばめる山田風太郎文学と、その複合的な主題を分析し、作品の魅力を浮かび上がらせる渡辺京二の見事な筆致に魅了されよう。

 第2章「三つの挫折」では、彰義隊という敗者を、坂口安吾、長谷川伸、そして再び山田風太郎が如何に描いたかを通じて「歴史は勝者だけが作るものではない、敗者もまた、闇の中から歴史の形成に参与する」と記す。第5章、第6章の自由民権運動論では、「敗者」の側の魅力がさらに豊かに描かれ、明治の士族蜂起や、多数の博徒が参加した自由民権運動を「士族の参政権」「豪傑民権」と命名する語り口には、著者の彼らへの愛情がにじみ出ている。

そして本書を貫いているのは、歴史は、勝者でも敗者でもなく「歴史的事件に左右されぬ厖大な生」の実在が根底にあるという姿勢だが、第6章「鑑三に諮問されて」は、その意味で渡辺と内村鑑三との思想的対決と言うべき緊張感に満ちている。内村は「義」の側に立ち、徹底的なまでに人間世界の「俗」を憎み、自然の食物連鎖すら悪しきものと嘆いた。その内村と親鸞の共通項と対立軸を論じつつ、結語では自然を媒介とした人間の存在論を美しく語る渡辺の論考は、聖書の「ヨブ記」を思わせるものがある。

最終章の新保裕司との対談で、吉本隆明、谷川雁、そして橋川文三から受けた影響を振り返りながら、筆者は「僕にはオリジナルな思想はない。僕にあるのは鑑賞力だけ」と語る。事実、歴史と文学、そして世界と自然への深く豊かな愛情と鑑賞力にあふれた一冊である。

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