映画「永遠の〇」を観た後、坂口安吾の「特攻隊に捧ぐ」 (実業の日本社文庫)を読んだ(下)

実業之日本社文庫ということ頃から、坂口安吾の「堕落論・特攻隊に捧ぐ」という評論集が出ました。これから坂口安吾を読もうという人には、とりあえず、この一冊をおすすめします。私は安吾と言えば「日本文化史観」「不良少年とキリスト」が評論としてはすごく好きで、あと小説はなんといっても「桜の森の満開の下」と、「狂人遺書」なのですが、正直本書収録の「特攻隊に捧ぐ」は未読でした。しかしこの一遍と「不良少年とキリスト」(本書収録)は、坂口安吾の一番安吾らしいものが宿っているように思えてきました。

「堕落論」が名作なのはわかっていますが、私はこのような評論は、たとえばまた日本が相当めちゃくちゃな時代になったらまた新しい形で誰かが書くことはあるように思います。ある意味、スタイルは違っても、西村賢太なんてそうかもしれない。しかし、先の二編は、大東亜大戦敗北後のこの時期にしか書けなかった、時代をとことんまで反映することで時代を乗り越えた名作評論ではないかと思う。

この「特攻隊に捧ぐ」は昭和22年に書かれ、占領軍によって発禁とされました。占領軍がけしからんとかそういうことではなく、このような文章、たとえ現在でも危険とされて左右双方から誤読されると思う、それくらいの衝撃的な評論です。

例えば安吾は、私は特攻隊というものが好きだったし、戦法としても上々のものだった、むしろ日本軍はもっと早く特攻隊作戦を展開すべきだったと堂々と言い切っていて、特攻隊は残酷な作戦だというが、実際の戦場で特攻隊よりもはるかにみじめに死んでいった何百万の兵隊がいるではないかと記しますが、これは全くその通りのように思う。しかし、安吾が本当に言いたかったことはそこではなく、次のような文章でしょう。

「私は文学者であり、生まれついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑い続けるものであるが、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、わかりきっているからだ。要するに、死にたくないという本能との格闘、それだけのことだ。疑るな、そっとしておけ、そして卑怯だの女々しいだの、またはあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。」

そして、特攻隊の多くは敵艦にたどり着けず撃墜されただろうが、敵艦に突入した何機かを彼ら全部の栄誉ある姿と見てやりたいと述べ、彼らの実態はもしかしたら、死を恐れ、生に恋々としていたかもしれないし、またごろつきで女たらしの酒飲みだったかもしれないとまで書いた上で「けれども彼らは愛国の詩人であった。いのちを人にささげる人を詩人という。唄う必要はないのである。詩人純粋なりとはいえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化け物はありえない。その迷う姿を暴いて何になるのさ何の役に立つのかね?」この文章の背後には、おそらく当時「特攻隊崩れ」などと言われた、闇市や各地で自暴自棄になっていた元兵士たちの姿があるはずです。

そして安吾は無頼派作家の姿で隠していた徹底したモラリストとしての姿をあらわにしています。特攻隊は確かに死を強要されたかもしれないと認めたうえで「強要せられたる結果とはいえ、凡人もまたかかる崇高な偉業を成就しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。(中略)ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死に守り育てねばならぬ。」

この文章と、太宰の死を悼んで書かれた「不良少年とキリスト」(おそらくかなり酔っぱらったかあるいは薬が入った状態で書かれたと思われる文章)は、真逆のことを言っているようで、実に深いところでつながっているように思われます。

「人間は、決して、勝ちません。ただ、負けないのだ」(不良少年とキリスト)

この言葉は安吾のおそらく最高の境地を示したものだと思います。

You can leave a response, or trackback from your own site.

Leave a Reply

Subscribe to RSS Feed