バレンボイム自伝

 著名なピアニストで指揮者の、ダニエル・バレンボイムの自伝(ダニエル・バレンボイム:音楽の友社)を読みながら、たまらなく彼の指揮するワーグナーが聴きたくなった。本書はクラシック音楽ファンだけのためのものではない。或る一人の良心的なユダヤ人が、中東の、そして世界の現実にどう立ち向かっているか、そして、その姿勢を支えている精神のあり方を教えてくれる良書である。

  ナチス・ドイツは、19世紀の代表的な作曲家、ワーグナーのオペラをドイツ精神の権化として讃えた。ワーグナー自身、彼の著作の中には反ユダヤ主義と取られかねない記述がしばしば登場していた。

 勿論、ナチス以前はユダヤ人もそのようなことは音楽の本質とは何の関わりもないものとしてワーグナーを聴いていたが、1938年、ナチスがユダヤ迫害に本格的に踏み切り、そしてアウシュビッツに象徴されるユダヤ人虐殺の有様が明るみに出た後、イスラエルでは、ワーグナーの公演演奏は行われなくなった。レコードやラジオはともかく、コンサート会場でワーグナーの音楽が響くことは、イスラエル独立後はタブーとなったのである。

 バレンボイムは、この問題をあくまで理性的に解決しようとする。ホロコーストの記憶が残るイスラエルで、今もあの時代を思い起こさせるワーグナーの曲を聴きたくないという気持ちは理解できる。しかし同時に、ワーグナーにそのようなイメージを持たない人に、コンサート会場でワーグナーの曲を聞く権利を奪うこともまた間違いだろう。強制をしてはならないが、同時に、民主主義の国イスラエルでこのようなタブーが存在してはならない。

 バレンボイムは2001年7月、ベルリン国立歌劇場管弦楽団のエルサレム公演にて、アンコールでワーグナーの曲を演奏することを聴衆に表明した。そして、約40分に渡って、ワーグナーを演奏したい理由を述べ、それに対する反対意見にも耳を傾けた。結論として、帰りたい人はすぐに帰ってもかまわないが、聴きたい人が一人でもいるならば演奏をすることで合意。数十人の聴衆は退席したが、数十年ぶりにワーグナーの音楽がエルサレムに鳴り響いた。

 バレンボイムは多くのドイツ人が、排外主義を恐れ、ナチスの記憶を振り払うために、自分の国への愛情をわすれてしまったことを「残念なこと」と述べ、あらゆる国の文化はそれぞれ価値があるものだが、ドイツ文化は「並外れて素晴らしい」もので、これについてはいわれのない謙遜をドイツ人はすべきではないと断定する。そして、現在のイスラエル国家に対して、バレンボイムはその建国・独立の意義を高く評価しながらも、現状の問題点を鋭く批判する。

 1967年の中東戦争勝利以降、イスラエルは、アラブへの寛容さを失ってしまったとバレンボイムは指摘し、隣人との共存を説いたユダヤの律法精神を再認識することを訴える。そして、ユダヤ人の持つある種の差別意識、選民意識からの脱却を呼びかけ、イスラエル国内のマイノリティであるパレスチナ人への寛容な対応と、中東諸国の一国として、アラブと共に共存し繁栄するイスラエルを目指すべきだと述べる。

 これは単純な平和主義や理想論ではない。湾岸戦争時、イスラエルでは人々がガスマスクを持ちながらコンサートに赴き、バレンボイムはその姿を目前にしている。中東の危険な情勢を見据えた上で、あえてイスラエル自身の内部改革を説いているのだ。

 ワーグナーのエルサレムでの演奏は、決して過去の歴史の記憶を断ち切ろうという行為ではない。ホロコーストの記憶を忘れない自分たちが、それでもドイツに対し、歴史に対し、言論・表現の自由に対し公正であろうという姿勢を貫くことは、同時に現在のパレスチナ問題に真摯に向き合うことと無縁ではない。

 パレスチナの思想家で、イスラエルに対する最も厳しい批判者の一人だったE・サイードをバレンボイムは高く評価し、全ての偏見を持つイスラエル人が彼の博識に触れるべきだと言い切る。そして、1999年、ワイマール市が欧州文化首都に決定した機会に、同市にてアラブとイスラエルの若い音楽家による合同ワークショップを実現させ、その席にサイードを招いて講演を行った。サイードは全ての参加者がナチスの強制収容所を訪れる事を「ドイツ人には罪の意識を感じさせないように、イスラエル人が不快感を覚えないように、アラブ人が自分たちとは無関係だとは思わないように」(バレンボイム)説得し、その結果ほぼ全員が収容所訪れた。 このワークショップではアラブとイスラエルの音楽家が感動的な共演を行った。しかし、ここでもバレンボイムは見事なまでに冷静さを失わない「音楽が中東問題を解決すると言うのではない。音楽は人生にとって最良の学校になりうるし、同時に、人生から逃避する最も有効な手段にもなりうるのだ」 

 バレンボイムは音楽について、音楽は無から生まれて無に終わる、全ての演奏は、同じ曲であれ全く同じように演奏されることはありえず、人生と同じく、ただ一度だけ表現されて静寂に帰する。音楽の最も重要な要素は、音の始まる前と終わった直後の静寂であり、それは「死と通じ合うこと」に繫がると言う。これは、コンサート前の緊張感、演奏中の満ち足りた時の流れ、そして終演後の感動と寂寥感を味わったことのある人にはすぐに共感できる発言である。

  ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、優れた宗教は、優れた音楽同様、この「死と通じ合う」ことの深みに触れ、その深淵から湧き出る生への尊厳を表しているはずだ。そして、「死」に触れ、「生」の意味を知った時に、人間は初めて他者を見出し、そこに連帯や友情が生まれてくる。占領地にしがみつく大イスラエル主義者にも、自爆テロに走るイスラム原理主義者にも失われているものは何なのか、本書は一人の音楽家の言葉を通じて私達に語りかけてくる。イスラエルとアラブの人々が、お互いが同じ精神の泉から生まれでた兄弟であることに気づくときにこそ、中東問題は真の「調和(ハーモニー)」向かうだろう。

You can leave a response, or trackback from your own site.

Leave a Reply

Subscribe to RSS Feed