書評 帝国の慰安婦 朴裕河著 朝日新聞出版 「少女像」は慰安婦の実像ではない

この書評は2015年5月に書き、「夢・大アジア」に掲載されたものですが、今の慰安婦問題について私の言いたいことはほぼ尽くされている書評なので再度掲載させていただきます。「慰安婦像」は実体の慰安婦とは全くかけ離れたものである、という一言を記した朴氏の勇気は、もっと評価されてしかるべきでしょう。同時に、氏は決して日本と同一化するのではなく、その思想的立場はあくまで独自のものであり、私とは意見の異なるところもあります。この本は慰安婦問題を考えるうえでの必読書の一つだと思いますので、ぜひ読んでいただきたく紹介しました。なお、掲載に当たって文章を多少改めました

書評 帝国の慰安婦 朴裕河著 朝日新聞出版

三浦小太郎

私は慰安婦問題を語るときに「彼女らはただの売春婦にすぎない」という言葉だけは使わないようにしている。もちろん、韓国や北朝鮮のプロパガンダである「慰安婦強制連行」なるものは認めない。植民地支配という点ではるかに残酷なことをしてきた欧米、今もチベットやウイグルなど諸民族を植民地支配している中国、日本人をシベリアに強制連行した旧ソ連に日本を批判する資格など全くないと思っている。しかし、同時に、平和な戦後に生まれ育った私が、戦前は日本国民として日本軍と共に厳しい戦地を体験し、戦後は韓国国民として様々な人生を生きてきた女性たちの人生に対して、一定の敬意は持ち続けたいと思う。

そして、この問題で何よりも問題なのは、慰安婦を「支援」すると称する人たちの側に、真の意味での彼女らへの敬意がほとんど感じられないことである。アメリカやソウルの日本大使館前に建てられた慰安婦像を見るたびに、一層その思いは募る。このような想いを、私は韓国の人にこそ語っていただきたいと思っていた。その意味で、2013年に出版された本書「帝国の慰安婦」はまさに日韓両国の相互理解のために必要な、韓国側からの提言の書である。

先ず共感できるのは、著者の朴裕河ができる限り中立の立場に立って資料を緻密に読み込もうとしている点だ。まず、戦前の朝鮮半島においては、幼い少女がだまされて売りとばされるような事件は少なくなかったことを、戦前の新聞報道に基づいて指摘する。その上で、実際の元慰安婦証言を読み解く限り、「日本軍に強制連行」されたとしている人はごく少数であり、それらの証言も「業者が制服を着て現れ、軍人と勘違いされた可能性」が高いことを読み解いていく。「『強制連行』との言葉が、公権力による物理的力の行使を意味する限り、少なくとも朝鮮人慰安婦問題においては、軍の方針としては成立しない」(46頁)これを言いきることは、おそらく現在の韓国言論界ではかなりの勇気を必要とするはずだ。その上で、もし彼女らを甘言で騙して慰安婦にしたものがいたとすればそれは女衒や業者であり、法的責任を問うとすれば彼らに対してであること、しかも多くは朝鮮人自身だったことも指摘している。

そして「挺身隊」と「慰安婦」の混同についても、本書は最初の誤報を1970年のソウル新聞や、在日朝鮮人作家の文章にさかのぼってそのような記述を確認し、さらに、業者自身が挺身隊と偽って慰安婦を集めた可能性も示唆していく。その上で「20万人の少女が慰安婦にされた」と言う言説がまかり通ったのはこの挺身隊との混同であること、そしてより重要なのは、慰安婦は「少女」ではなかったことを論証していく。圧巻なのは、慰安婦像に対する根本的な批判である。慰安婦の平均年齢が資料から類推する限り25才であり、「少女」の像そのものがふさわしくないこと、裸足でこぶしを握り、真正面の日本大使館を見つめている姿は、実情とはかけ離れた「抵抗する慰安婦」であり、また実際に着ていたとは思えないチマチョゴリを着せた姿は、独立闘争で死んだユ・グアンスンの像に類似した「気高い独立闘士」に作られていることが指摘される。そして、この慰安婦像を巡る次の文章は私に最も共感できる一節だった。

「結果として、実際の朝鮮人慰安婦が、国家のための動員され、日本軍と共に戦争に勝つために日本軍の世話をしたことは隠蔽される。」「そこには、日本の服を着せられて日本名を名乗らされて『日本人』を代替した『朝鮮人慰安婦』はいない。日本軍兵士を愛し、結婚した女性も、そこでは居場所を与えられない。死に赴く日本軍を最後の民間人として見送り、日本軍を自分と同じ運命におちた気の毒な存在とみなして同情する『朝鮮人慰安婦』は、そこにはいないのである。(中略)『日本人より業者が憎い』とする慰安婦もそこには存在しえない。結果的にそこには『朝鮮人慰安婦』はいない。(155頁)

この文章からわかるように、著者は慰安婦像をあくまで総合的に、かつ何よりも敬意と愛情をもって論じている。軍が慰安婦のための運動会を主宰し、彼女らが涙を浮かべつつ喜んでいた姿を引用し、もしも人権を語るのならば、このようなよき思い出を慰安婦たちに封じる権利は誰にもないという著者の指摘は絶対的に正しい。そしてこの姿勢は、ベトナム反戦運動の指導者であり、代表的な戦後民主主義の論客だった鶴見俊輔が、若い兵士が目前の死を覚悟した時、慰安婦の人に心から慰められるという瞬間は確かにあったとし「私はそれは愛だと思う。私はそのことを一歩も譲りたくない」と語った姿勢、そして運動会のエピソードを見事な文学に昇華させた在日韓国人劇作家、つかこうへいの姿勢とも共通するものがある。著者は現在の日韓の慰安婦支援運動に対しても的確な批判を加えていくが、それもあくまで慰安婦当人の現実に寄り添うものではなく、何らかの政治的意図に基づくものや、実態とはかけ離れた像を慰安婦に押し付けるものが主流だったからである。慰安婦証言がしばしば矛盾したり、当初の聞き取りよりも過激で残酷なものに変わって行ったのも、彼女らの虚言や誇張と言うより、むしろ、そのような被害者としての証言だけを期待する聴衆や運動家に影響された結果ではないかという著者の指摘は、多くの人権運動や差別反対運動、マイノリテイへの支援運動がしばしば陥りがちな問題点をも普遍的に指摘していると言えるだろう。

また、国連におけるクマラスワミ報告についても、そこでは吉田清治証言と言う虚偽情報が引用され、また北朝鮮の慰安婦による信じがたい証言(13歳で慰安婦にされ、また酷い拷問を受けたなど)「20万人」の「少女」が慰安婦にされ殆どが殺害された(実際は著者も触れるように殆どの慰安婦は戦後帰国している)などの誇張が含まれていること、マクドウーガル報告にも同様の過ちがあることなども著者は批判的に分析している。また、韓国米軍基地における朝鮮戦争以来の慰安婦の問題、インドネシアのオランダ人女性の問題、また韓国自身のベトナム戦争における問題なども、本書は短いながら触れており、著者の視点の公正さをうかがわせる。

しかし、多くの共感を覚えつつも、やはり本書には違和感もまたを覚えざるを得なかった点もある。それは、本書におけるアジア女性基金や河野談話への評価など個々の見解においてではない。それはむしろこの問題の解決を探るための韓国側家からの現実的提言として評価してもよいくらいだ。より本質的なのは、次のような文章に代表される著者の国家観である。

「慰安婦問題で最も責任が重いのは、『軍』以前に、戦争を始めた『国家』である」(32頁)この言葉は、本書最終章「慰安婦と国家」で展開される著者の思想の根底をなす。著者にとって、慰安婦問題は何よりも国家と資本、そして帝国主義の問題とみなされている。帝国主義国家が不平等条約を押し付け、又他国・他民族を植民地化する過程で、業者と言う「祖国を離れた商人たち」による女性の人身売買による「女性たちの身体の商品化」が行われた。慰安所は帝国主義が国家勢力を拡張し、経済を潤沢にしようとする行為に伴って作られていったもので「人間を搾取して利潤を残そうとする資本主義」のもたらしたものであると著者は結論付け、その上で、この国家による搾取と自国の利益拡大のために勢力を拡大しようとする意志は現在も本質的に変わらないとする。そして、この問題を解決するためにも、日本国に、戦前の植民地支配と戦争に対する独自の反省を期待するのだ。

「西洋発の帝国主義に参加してしまった日本が反帝国の旗を掲げるのは、西洋発の思想によって傷つけられたアジアが、初めて西洋を乗り越えることになりうる。支配思想ではなく、共存思想をアジアが示す意義もある。」「国家が国民を、男性が女性を、大人が青少年を、戦争に利用するのはやめるべきだ。民族の違いや貧困という理由だけで他者を支配し、平和な日常を奪ってはならないという新たな価値観を、慰安婦問題の解決に盛り込みたい」(313頁)

私はこのような主張を全面的に否定しようとは決して思わない。国家権力がしばしば国民を弾圧し、また宣伝や欺瞞で侵略戦争に駆り立ててきたこと、グローバル資本主義がますます富の格差を生み、また拝金主義的な世界観の蔓延が固有の文化を破壊しかねない状況、中国の覇権主義的台頭などの現状を見るとき「共存の思想」は、著者とは違った意味で必要とされていることを感じることも確かだ。しかし、ここでの著者の国家観、国民と国家権力を通俗的に対立したものとみなす視点は、慰安婦の実態を多角的に見てきた著者とは思えない、余りにも単純な図式である。また、資本主義が確かに搾取のシステムである一面を持つことは確かだが、同時に、近代資本主義なくして、おそらく著者が価値観としている自由、民主主義、個々人の解放もありえなかったことも確かなのだ。

さらに言えば、戦場に散った兵士たちも、また彼らと共にあった慰安婦たちも、単純に「利用された」犠牲者だったのではない。私は数年前、韓国にて、日本軍兵士として戦った韓国人数名にお会いしたことがある。この人たちの声も今は慰安婦同様韓国では本音がなかなか届きにくくなっていることと思うが、彼らは一様に、日本軍兵士としての経験をある一定の誇りと共に語った。それを仮に、日本統治下で強制された意識の残存と呼びたければ呼ぶがよい。しかし確実なことは、その日本兵としての訓練と経験は、続く朝鮮戦争で北朝鮮の侵略と闘う時も同じように生かされたことである。「私は特攻隊のような精神で、祖国韓国のために闘いましたよ」こう日本語で語った元兵士の言葉を私は今も忘れることができない。彼らは日本軍として日本国の為に、そして、戦後は真の祖国、大韓民国の為に戦ったのだ。

私は彼ら元日本軍だった韓国人兵士に対して、そして、また慰安婦の方々にも、謝罪ではなく、その生きた歴史への敬意と、何よりも感謝の思いを伝えることこそが、日本の取るべき態度だと考えている。「謝罪」とは、実はある種の上下関係をもたらし、著者が否定しているはずの歴史の単純化につながる危険性を常に持つ。しかし、「感謝」は、お互いへの敬意を前提とした平等な関係と、歴史を豊潤な可能性に満ちたものとして捕える、日韓の和解と相互理解につながるはずだ。そして、日本による韓国統治が、確かに他民族に支配されることへの屈辱を伴うものであったにせよ、そこでは強制されたとはいえ近代化が行われ、様々な朝鮮民族の意識改革も、環境改善も、また日本国民との一体化も生まれたはずである。それを全て強制やマイナスとみなし、帝国主義列強に朝鮮民族が支配されていった屈辱の歴史とみることは、かえって韓国の先達、特に、日本統治下において民族としての誇りを持ちながら生き抜いた人たちへの侮辱になりかねない。この視点に立てば、韓国も「親日派」の祖先たちに対しても、一元的な批判ではなくより総合的な評価がなされるはずである。

さらに言えば、かっての日本統治よりもはるかに残酷な植民地支配を、今現実に行っている中国に対し、日韓が共同して、チベット、ウイグル、モンゴル人の人権改善や民族自決権の実現を求め、真の意味で植民地支配をこのアジアから消滅させること、未だに最悪の国家権力が民衆を弾圧している北朝鮮からは、慰安婦同様、あえていえばそれ以上に悲惨な境遇の女性たちが中国に人身売買されていることに抗議と救援の声を上げること。歴史問題以上にこれらの現実の問題に取り組むことこそが、日韓が未来のアジアを連帯して作り出すことではないだろうか(終)

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