台湾の老革命家、史明氏、天国へ

台湾の「革命家」(この言葉がふさわしい人はあまりいない)史明氏が、9月20日亡くなりました。100歳でした。1世紀にわたって、激動の人生を生きてこられた方でした。

1918年に生まれ、青年時代は左翼思想に傾倒して中国の人民解放軍にまで参加。しかし、共産党の実態を知り台湾へ逃れるが、その後の蒋介石の独裁と弾圧に抗議、蒋介石暗殺を企てるが発覚して日本に亡命。日本国内で台湾独立運動と、今も評価される台湾の通史「台湾人400年史」を執筆、台湾人のアイデンテイティ確立に尽力しました

簡単な紹介としては下記記事、後、興味を持たれましたら「史明 自伝 理想はいつだって煌めいて、敗北はどこか懐かしい」(講談社)をぜひお読みください。左とか右とか、保守とか、そんな言葉ではくくれない、とにかく過激に生き抜いた革命家の貴重な歴史の証言です。テレビドラマでも映画でもいい、この人の伝記を描いたらすごい面白いと思うんだけどなあ。

池袋西口の中華『新珍味』はなぜ台湾独立運動の聖地となったか

(前略)史明が早稲田留学時代、文学やクラシック音楽、歌舞伎を通じて幅広い交友を持った縁から、『新珍味』(池袋で史明が経営していた台湾料理店。初期台湾独立運動の拠点にもなった)は文化人が集うサロンの側面もあった。

「作家の武者小路実篤には留学時代にずいぶん可愛がってもらい、戦後も交流が続いた。『新珍味』にも何度となく立ち寄ってくれ、『四百年史』を上梓するときに題字を揮毫してくれたのは武者小路だ。文学研究者の柳田泉をはじめとする坪内逍遥の弟子たち、美術史家の逸見梅栄(へんみ・ばいえい)、作家の開高健なども常連で、彫刻家の平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)も来てくれたなあ」。(中略)

史明は1975年まで「極左」と呼ばれ、武力革命も辞さないスタンスで台湾独立を目指していた。その影響で『新珍味』には彼の台湾独立運動に共鳴する若い台湾人たちが集い、日本赤軍や国鉄労働組合(国労)の幹部、東京大学教授の宗像誠也(むなかた・せいや)といった反権力の左翼人士がギョウザを食べながら、階上の大部屋で激論を交わしていた。

面白いことに、左翼だけでなく右翼も『新珍味』の常連だったという。史明は戦前、五・一五事件で犬養毅首相を暗殺した元海軍中尉で国家主義者の三上卓(みかみ・たく)と交流があった。三上は戦後、野村秋介ら弟子たちと『新珍味』を訪れては「彼らの面倒を見てやってくれ」「少し食わせてやってくれ」などと頼んだらしい

昼はギョウザを焼き、夜は台湾独立の地下工作に傾注し、左翼や右翼の過激な連中とも関わりを深めていく史明──。傍目にも怪しい彼が公安の監視対象だったことは疑いなく、事実、公安調査庁初代長官の藤井五一郎、内閣安全保障室(現・内閣官房国家安全保障局)初代室長の佐々淳行(さっさ・あつゆき)は自ら『新珍味』を訪れ史明と接触し、日本がいかにして台湾や中国と関わっていくべきかといった観点から史明に意見を求めて来た。

「彼らの態度は常に紳士的だったが、そこは腹の探り合いだ。俺も、話せることは隠さず何でも話したが、守るべきことは徹底して秘匿した。同時に、日本の公安幹部が持つ情報を収集する機会にもなった」。

警察にとっても、池袋西口の顔役で華人社会にも精通する史明は一目置くべき存在。池袋警察署長は就任のたびに史明のもとへ挨拶にやってきたという。

その一方で史明は、地元のヤクザとの義理も欠かさなかった。

池袋西口はテキ屋(露天商)系指定暴力団の極東関口会(現・極東会)が縄張りとしているが、史明は20年以上にわたって毎年正月に「松竹梅」(宝酒造)の樽酒を差し入れていた。店を守る手段でもあったのだが、同時に顔なじみのヤクザたちは『新珍味』の常連になっていく。史明は「うまい酒を飲み、うまいメシを食っているときは、左も右も警察ヤクザも関係ない。そこが面白いじゃないか」と屈託ない。(後略)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64326?fbclid=IwAR0faYCJPaBwZMMjMNFCmuyAIHngomnx9z12SJU5oYHuxphnxXGOGvhG8vc
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